アドセンス2

2013年12月31日火曜日

『もらとりあむタマ子』 終わらない夏休みは、モラトリアムではない

23歳大卒ニートのたま子が家でグータラしている様を描いた作品。それ以上でも、それ以下でもない。
だが、それがとても心地いい。
食って寝てのたま子の生活感がたまらなく愛らしいし、ニートならではの親との会話は(胸が痛くなりつつも)笑わせる。女の子観察型、非ドラマ的映画ということで萌え日常アニメなんかとすごくテイストが似ている。
スローで、間を大切にし、家庭劇ということもあり「みなみけ」なんかを私は思い出した。
ファンであらずともこの映画の前田敦子には萌えてしまうはずだ。

ただのグータラ映画と思われがちだが、山下監督はモラトリアムというものに良き示唆を与えてくれる。
モラトリアムの元来の意味は、義務の留保を意味する。大学生がモラトリアム期間と言われるのは、本来果たすべき労働を退け、他のことを行っているからであって、その後何もしなければモラトリアムと言われるに値しない。

たま子の父親は、たま子に「就職しろ」「家を出て行け」と言う事を次第にやめ何も言わなくなるし、「今のたま子のままでいいんだよ」とむしろずっといて欲しいとすら思ってしまう。
そんな父をたま子は「父親失格」と蔑む。「いまここ」という場所にどうしようもなくうんざりしていながら、どうしようもなく抜け出す努力を嫌がっているのだ。そして、いまここをモラトリアムへと変えてくれるための果たすべき義務を必要としていたのだ。

AKBをやめ、女優業に本腰を入れる前の充電期間のような現在の前田敦子だから輝く一本だ。また、そんな輝きに重要な働きをしてくれたのが近所の中学生役の伊藤くんという役者。セリフの一つ一つも素晴らしいのだが、13歳の彼の少しずつの成長がものすごくいい味をだしている。最初は、ほとんど小学生のような彼が気がつくと顔にニキビが出来てたり、すこし輪郭ががっしりしたりと、本当に時間が経っている事を感じさせてくれる。


黒沢清監督、前田敦子主演「セブンスコード」がとても待ち遠しい。きっとモラトリアムを脱した前田とあえるはずだ。

2013年12月16日月曜日

【評/感想】『ゼロ・グラビティ』はあなたのすべての身体機能をジャックする


うわさの『ゼロ・グラビティ』をIMAXで見てきた。
あと私が見たユナイテッド・シネマとしまえんでは「ウィンブルシート」なる座席振動装置があるのでそれも使った。

結論からいうと、すごくすごかった。

「映像への没入感がー」とか言ってるけど、ぶっちゃけ意味がわからなかったのですが本当にその通り。
映画は地球の大写しから言われている通りの13分の長回しで始まる。その壮大で美しい地球に感動するのもつかの間、きっとあなたは不思議な感覚に襲われ始める。地球にピントを定めたままにカメラは徐々に動く。NHKの自然番組や、はたまたユニバーサルフィルムのロゴムービーで見慣れたような横向きに地球の表面をぐるっと写すようなものにしか見えないのだが、身体は明らかに異変を感じる。そうそれは前後にあるいは斜め方向だろうか、まさに3D的動きがあるのだ。
そして次に視線は宇宙に向かう。地球の奥の暗黒から白い物体がゆっくりと近づいてくるのが見えてくるのだ。この物語の主人公ライアン博士(サンドラ・ブロック)が船外活動を行っている船だ。カメラはここでは固定され、一直線で船は向かってくる。それはつまり、スクリーン内の情報量が増大することも意味する。
目に見えるすべてのものが慣性の法則に従い、点でバラバラの方向に飛び回る。それはカメラも例外ではない。ここからはカメラワークは活発となる。常に下にあると思っている地球が、頭上に見えたり、横に見えていたりし始めるといよいよあなたは方向感覚を奪われ、眼前のグラビティゼロへ完全に投企される。

人間が歩けるのは脳が次の行動を予知し絶えず平行へとバランスをとっているからだという。しかし、誰も経験したことのないグラビティゼロでは当然そのような機能は働かない。つまり、誰しもこの映像を見れば酔ってしまう。その辺は制作も織り込み済みで、あなたの酔いという身体現象までもひとつの演出効果として映画で使用している。

没入性を促すのは上下感覚の喪失だけではない。次に失うのは身体機能のコントロールだ。知っての通り宇宙空間では、空気がないため音も一切聞こえない。映画なので爆破音や、BGMは使われるもののそれらも一般の映画と比べればとても静かに抑えられている。その代わりにこの映画を通して聞こえる通奏低音は呼吸だ。「はあ、はあ」という音が大きな音で常にリズムを刻む。その音が段々と自分の呼吸なのか、SEなのかが分からなくなる。そしてとどめはウィンブルシートだ。呼吸音と合わせて振動する椅子により、音と自分の身体が共鳴し、完全にライアン博士にシンクロしてしまう。そう身体機能をジャックされてしまうのだ。

ここまで自己との同一化が進むと手に汗握るどころではなく、苦痛を直に感じてしまう。ライアンの酸素ボンベが減り彼女が酸欠になりかけると、呼吸が完全にシンクロしてしまっているので同じく観客も苦しくなる。
デブリに衝突し、宇宙に飛ばされかけた時は何かに掴まらないとと脳が咄嗟に判断をくだし、すぐ近くにあるものをギュッと握ってしまう。

映画が終わり地球の大地に足が付いている感覚に安心し、冬の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み酸素のありがたみを知るとき、IMAXで見て良かったときっと実感するはず。

2013年12月15日日曜日

【評/感想】「認知症も悪い事だけじゃない」という言葉が偽善的に聞こえる人に勧めたい『ペコロスの母に会いに行く』



『ペコロスの母に会いに行く』を見てきた。
ウィークエンドシャッフルなどで、「号泣、嗚咽がとまらない」などの感想に背中を押されて向かった。

予告編で、「ボケるのも悪い事だけじゃないね」といってたりしてるのを見て、行く前は私の好きそうな映画ではないかもなと思っていた。病気を肯定して生きるというのはありうることだけど、映画でのそれはいかにも偽善的で、ただ観客を肯定し感動を呼ぼうとする魂胆が見えるものばかりだった。

『ペコロスの母に会いに行く』もそういった病気を扱う映画と同じ様に「ハートフル」だし、人情が溢れた映画だ。それは『男はつらいよ フーテンの寅』などを手がけた森崎東監督の持ち味の一つだ。その一方で、それはひとつの側面、あるいはオブラートの外側にすぎず、その内実はかなりハードコアで、アバンギャルドなサイケデリックムービーでもある。

62歳の主人公・岡村雄一(バンドもやっていて、ステージネームがペコロス)は89歳の認知症の母・みつえを介護しながら、息子と三人で暮らしで、みつえに振り回されながらも、音楽を支えに、日々を送っていた。おれおれ詐欺に引っかかりそうになったり、勝手に外にうろつく母を探し回ったりする様をカメラは面白おかしく捉える。亡くした夫を生きているように「おとうさんはどこにいるの?」といったり、幼少時代に一緒に育ったものの若くして死んだ友人に手紙を書いたり、記憶の交錯も起き始める。ただ、これらのシリアスなものも演出の力で笑いに昇華している。映画館は終始笑いに包まれていた。

だが、認知症は進行しケアマネジャーに施設への入居を薦められる。雄一は入居させたいものの、みつえは入居を嫌がる。幼稚園児を扱うような話し方、狂ったような入居者をみつえは訝しく思っていた。そして何より、息子の雄一と一緒にいられないことを最も嫌がっていたのだ。
ちなみに、『ペコロスの母に会いに行く』というタイトルは、「私は介護はしていません。ただ、施設に会いに行っているだけです」という謙遜からきている。

入居者や、その扱い方を拒むみつえは、彼らとは一線を画し自室に閉じこもる。そして彼女は自らの記憶の中にどんどんトリップしていくのだ。そしてそれらは、いままで誰にも言えなかった、トラウマ的な記憶たちなのだ。
農村の10人兄弟の長女だったみつえが、病弱な妹に畑仕事をさせ、ある意味殺してしまったこと。夫(加瀬亮)のDVや、すべてを酒に使ってしまい空の給料袋を持ってきたこと。それを苦に、雄一と冬の海の前で心中を図ろうとしたこと。
それらを、断片的に前後にとらわれず観客に提示する手法はさながらサイケデリックムービーのようなのだ。

亡き父とみつえの思い出の場所が、長崎ランタン祭であることを雄一は思い出す。元気をなくしていた、みつえを雄一は祭に連れて行く。そしてランタンをさながら走馬灯に見立て、観客もみつえの記憶の中へと潜って行き、感動のラストへと話は一気に向かう事になる。
(ここはとにかく撮影がすごい!夕闇のなかのランタンの幻想的な雰囲気を心理描写と重ねるように自由自在に、恐ろしくも、美しくも描いている。ここもサイケっぽさがあって、イージーライダーのラストの祭描写とすごくよく似ている。)

この映画は単なる認知症映画ではない。見る前に私が偽善的だと吐き捨てていた、「ボケるのも悪い事だけじゃないね」という言葉が跳ね返ってくる。つまり、この映画での先の言葉は「つらい現実をみるよりも、幸せな記憶に閉じこもれる病気って素晴らしいよね」というどこか皮肉的な言葉なのだ。

ディテール的部分の認知症ギャグ、ハゲギャグも冴え渡っているし、なにより最高齢主演女優としてギネスに認定される(らしい)御年88歳の赤木春恵の演技がすばらしい。また、アウトレイジファン的にはこの映画の加瀬亮の役はまんまそれ!というか、倫理的にはもっと酷いことをやっちゃってたり生唾ものだ。
この冬の隠れた名作として是非見るべき作品だ。

【評/感想】この冬、最もチェックしなくていい映画!『REDリターンズ(RED2)』


Retired Extremely Dangerous」(引退した超危険人物)略して「RED」。
引退したCIAの元スゴ腕エージェント、フランク(ブルース・ウィルス)は、のんびりと田舎暮らしをしていたのだが、突如家を襲撃される。その攻撃は、彼が昔関わった事件を闇に葬るためにCIAが企てたものだった。フランクは元同僚たちと再び協力し、CIAの陰謀をぶち壊す。というRED/レッド』の続編映画が、『REDリターンズ(RED2)』だ。

前作『RED/レッド』はありがちなストーリーながらも、引退したおじいちゃん、おばあちゃんが若者を相手取り最高にクールなアクションをキメたイカした映画だった。それに比べて『REDリターンズ』を一言で表すなら「老害」映画だ。

前作から数年の時が経ち、フランクはガールフレンドのサラ(メアリー=ルイーズ・パーカー)と静かに暮らしていた。彼らがスーパーマーケットで買い物をしているとRED仲間のキチガイ男マーヴィン(マルコヴィッチ)が登場。彼は自分が再び誰かに命を狙われていることを告げる。だが、フランクはこの生活を捨てることを嫌がり彼を助けようとはしなかった。マーヴィンは諦めて車で帰ろうとすると、彼の車は爆破されてしまう。こうしてフランクは再び戦いの中に入って行く事になる。

まあ要は1の映画と同じ話を、1よりアクションも、演出も、プロットもヌルく作った続編です。戦いは世界規模になったり、核爆弾が登場したりするが、それでもヌルい。午後のロードショーでもヌルい方に数えてしまうだろう。

年寄りだけどカッコいいだからREDは成立していた。しかし手垢にまみれた演出が連続するこの続編は、年寄りがヌルい映画をやっているだけなので本当に高齢化したハリウッド映画以外のなにものでもなくなってしまっている。
REDというコンテンツは、オールドマンとフレッシュさという非常に難しい両立が必要だ。この先続編を作るならばよりそのハードルは必然的に上がってしまうだろう。
次回があるなら、車椅子に乗りながらガンカタとかやるくらいぶっ飛んでくれないかな。

2013年12月12日木曜日

【評/感想】 『ルパン三世 VS 名探偵コナン THE MOVIE』はアベンジャーズを超えた最強の祭り映画だ


愛には二種類ある。それは配慮と情熱だ。
前作テレビ版でのルパンVSコナンは互いの作品への愛ゆえに、気を使いすぎた感のあるものだった。そのために、両者の個性は出しきれず、うまく収まっているものの、小さくまとまり過ぎた作品となった。
しかし2つの作品はファーストデートを経て、本作『ルパン三世 VS 名探偵コナン THE MOVIE』では完全に愛を成就させた。お互いが余すところなく作品の魅力を出し、あるいはぶつけ合いながら、魅力を補強しあう。まるで、激しく濃厚なセックスかのように。

この映画とにかくゴージャスだ。手に汗握るアクションシーンの連続、しかも矢継ぎ早にシーンを転換し陸海空様々なところで観客を沸かせ、ギャグシーンも冴え渡り純粋に笑える。コナン史上最大のお祭映画であり、いわゆるファンムービーものとしてここまで観客を興奮させる演出を私は見たことがない。

それはひとえにルパンとコナンという作品の相性の良さと、脚本の前川淳氏の手腕によるものだ。
ひとまず前川淳がなぜこの作品を良くしたのかを論じたい。彼は東映アニメーションの作品を主に手がけているのだが、その中でも特に前川淳が光るのは過去作品を踏まえた新作ものだ。その代表は「デジモンアドベンチャー」と「デジモンアドベンチャー02」だ。
デジモンアドベンチャー02では、前作の主人公は兄貴立ち位置となりバックアップとして新主人公たちを支援する。新しいキャラクターたちを押し出しながら、霞まず、しかし出ずっぱらないという絶妙なバランス感覚で先輩キャラクターの造形をより深めた。このバランス感こそが本作を支えている。

この映画でのバランス感覚とは、ケレン味とハードボイルド。あるいシリアスとギャグだ。前者がコナンの、後者がルパンの持つ属性だ。
前作の評価がイマイチだが、本作が傑作となったのはコナンの世界にルパン三世がやってきたことによりメタ視点をルパンに託すことができたからである。
というのも、コナンというシリアスなキャラクターには、世界観を茶化すことは難しい、しかしルパンであったり次元大介がもつ一種の浮いた雰囲気はどの世界に入ることも容易く、そして背後にあるハードボイルドの世界観が彼らの言葉に説得力を持たせる。だからこそ、メタ視点が導入できたのだ。
「江戸川コナン、探偵さ」といったコナンに「それがお前の決め台詞か」と皮肉るようにいう次元。このシーンはその骨頂だ。

そしてメタ性はアクションにも及ぶ。この映画すべてのアクションシーンが素晴らしい。しかしそれは、脚本や演出の力量だけではない。映画冒頭満月をバックに不敵に微笑む怪盗キッド、ビルからのジャンプ、コナンが拳銃を持つ、好敵手と喧嘩しながらの飛行機の操縦、そうコナンファンなら分かるようにアクションシーンはどれもかつてのコナン映画の焼き直しなのだ。しかしメタ性と、イレギュラーな映画であるお祭り感に担保されることから既視感を抱かせない力を持つのだ。

これはコナン作品最高どころか、アニメ史、さらには映画史に残って欲しい一作だ。ある一箇所を除いては私は批判する場所を見つけられない。しかし、それがあろうとお釣りがくる。
今はひとつの集団のアベンジャーズも結成当時は、独立した作品を寄せ集めたものだった。コナンVSルパンはこの作品を経て、そういった高みへと登ったように思えてならない。これは日本国民にとってのアベンジャーズ的最高の祭り映画だ。

2013年12月8日日曜日

47RONINは良くも悪くも、いや悪い意味で普通


 キアヌ・リーブス主演、長編映画初挑戦のカール・リンシュがメガホンをとる今作。
江戸時代中期に起こった、赤穂浪士による吉良義央襲撃事件を描く忠義の物語「忠臣蔵」を大胆にハリウッド映画化!
監督自身は「ロード・オブ・ザ・リング」+「グラディエーター」だと評したり、「この映画はクスリをキメた黒澤明だ!」なんて言ったりしている。
(http://www.slashfilm.com/director-carl-erik-rinsch-describes-47-ronin-as-kurosawa-on-meth-on-set-interview/http://www.slashfilm.com/director-carl-erik-rinsch-describes-47-ronin-as-kurosawa-on-meth-on-set-interview/)
たしかになるほど、いう感じの凄まじいトレーラーに惹かれて私は劇場にむかった。

余談だが、一部では「外人の間違った日本観www」とかいう風にバカにされてはいるけれど、外人もそんなに日本のことを誤解しているわけでもなく、IMDbの掲示板を見ると彼らもイロモノ映画だと分かっている。「日本には未だに忍者がいると外人は思っているwww」なんて日本人は言っているが、実際はそんなことなく、それらはむしろ日本をそういう風に見てもらいたいという裏返しでしかないでしょう。
むしろイロモノとわかった上で楽しむ「300」的映画でしょう。また多分「魔界転生」なんかも意識しているのかもしれない。(あとはパイレーツ・オブ・カビリアンなんかも本当はこの映画と意図はおんなじなはず。)

少なくとも後者の楽しみ方で見ようと思ったこの映画だが、強烈なビジュアルとは裏腹にかなり地味なのです。いや、確かに忠臣蔵には普通現れないであろう。
モンスターであったり、

ダース・ベイダーというかシルバーサムライ的なキャラが


出たりしているのにスケールが小さい。

例えばシルバーサムライ。こんな見た目にも関わらず戦い方は普通のチャンバラ。殺陣自体はまぁまぁなのだが、陳腐な撮影も相まって結構ショボい。
ちなみにこの場面はさながら魔界転生の江戸城炎上シーンのように見えるのだが、実際は野焼き。しかも、広大な土地を焼くのならまだしも、せいぜい半径50メートルくらいしか焼けていない。CGを駆使しているのにもかかわらず、小さく収まっている感が最も感じられるシーンの一つだ。
見せ場のキアヌ・リーブスVSモンスターも、暴れまくるモンスターをキアヌがぶすっと一発打ち込むくらいなのでカタルシスがない。
総評的に述べればビジュアルの壮大さと、バトルのリアリティが全く異なっているのです。

さらにアクションでの最大の欠点は、侍映画であるのにもかかわらずフィーチャーされる対人戦がないのだ。対人戦が地味だからモンスターを出そうとなったことは分からないでもないが、この映画を見にくる人の一番期待する場面ってCGを駆使した超絶チャンバラだと私は思うんだよね。

まぁそれはあくまで忠臣蔵という物語を描きたかったという点もあるかもしれない。
それだけに、ツイッターなどで意見を見ていると「意外と忠臣蔵をしていてビックリ、割りといい映画だよ!」といった意見を目にする。
しかしだ!忠臣蔵という、仇討ちのストーリーはどんなにぶっ壊してもその骨組みは残るだろ!と言いたい。殿が殺されて、怒った家臣が吉良義央をぶっ殺せば大体忠臣蔵となるだろ!

47roninは確かに忠臣蔵のストーリーをちゃんとやっているけれども、はっきり言ってプラスα的要素はほとんどないし、なんだか小学校の学芸会レベルでの忠臣蔵のストーリーを追いかけている具合にすぎないので、再現をしていることが評価に繋がるというレベルには達していない。

かなりdissったものの、菊地凛子の妖艶な演技や、浅野忠信演じる吉良義央のうわーこいつ超嫌なやつだわ〜的表情は素晴らしい!
あとラストの47人が一斉に切腹をするシーンなんかはかなりカッコいい。
普通に楽しむことができる映画であることも事実。
とにかくド派手な絵面は映画館で見るのをおすすめします。



2013年11月8日金曜日

評/感想 最狂哲学ホラー映画 ヤン・シュヴァンクマイエル監督「ルナシー」


チェコ、パペットアニメの始祖にして、世紀の鬼才ヤン・シュヴァンクマイエル監督の「ルナシー」!
といっても、私は彼の映画を観るのはこれが初めてなのでひとまずそのような肩書き的なものは一切置いておく形でこの映画を語りたい。

吉祥寺バウスシアターにて開催されていた「チェコアニメ映画祭」の枠で観てきた。

予備知識のないままに、客席に座り、予告編も無いままに本編が始まる。
最初のカットから度肝を抜かれた。なぜなら、監督自身が映画をネタバレしつつ紹介をしだすのだ。

「この映画はアートではない。ホラーだ。この映画のベースには、マルキドサドとエドガーアランポーがある。
精神の病を直すのに必要なものは自由か、統制のいずれかである。この映画では両者の短所を用いる。」彼が語り終えると、目の前をステーキ肉が芋虫のような動きで通りすぎる。そしてカットが代わり、人が腹を裂かれ、臓物が体内から滝のように溢れ出る。このようにして本編が始まる。

映画を鑑賞してようやく理解したが、ここまでの説明の部分が本当にそのまま映画となっている。外皮を剥かれた肉塊としてのむき出しの狂気的人間性が、彼の語りをそのままに紡ぐ。

自由の象徴となる男が、侯爵だ。侯爵はフランス語でmarquis。そう、そのまんまマルキドサドから多くの意匠を受けている。
彼は宗教的、道徳的、法的なあらゆる制約を否定し、究極的な肉体的愉楽を自由の達成すべき目標と掲げる。
母の葬式の帰りの宿で幻覚に襲われた主人公ジャンを助け、侯爵は自らの屋敷へと案内する。(その道中も大変に魅力的なシーンだ。寂しい田園の中、狂気の人々がぽつんぽつんと窓越しに見える。しかし、誰もそれに疑問をいだかない。万人が狂気に陥っていることを感覚的にヤン監督は説明している。)

彼は一晩侯爵の城に厄介になることになる。その夜、彼は窓の外に馬車が止まる事に気がつく。すると中から女がひきづり出され、礼拝場へ押し込まれる。彼は隠れながら中を見ると、侯爵はマリア像に無数の釘を打ちながらキリストを罵倒し、自由ばんざいと叫びながら女をレイプしているのだった。
しかし、その姿はどこか神聖な儀式のように撮影されている。アナーキーとしての自由を彼は目撃したのだ。

そのようにして、彼は自由に対しての懐疑を重ねる。この地は、権力の所有者を監禁された地であることを彼は知る事となる。狂気的な自由から、逃げ込む様にジャンは権力者を地上に復活させる。しかし、それは秩序の復活ではなく、ただ暴力による統制が戻るだけだった。

フランス革命のラ・マルセイエーズとアンシャンレジームの対比の様な相対する、自由と統制の狭間でジャンが格闘するというのがこの映画の主題である。
そして、双方の恐ろしさを監督はホラーと呼称しているのだ。

そして、チェコアニメの巨匠だけあり映像も本当にすばらしい。メインシナリオと平行して、肉塊が動き回るコマ撮りアニメーションが挿入される。このコラージュ感覚は方々で指摘されている通り、まどかマギカでおなじみとなった劇団イヌカレーの始祖である。コマ撮りという手法自体がもつ、動きのいびつさ、ロウファイさが、CG全盛期の今だからこそ観客に感覚的な恐怖を抱かせる。

また途中で行われるアートセラピーのシーンなど私の映画体験でも有数の名シーンに入る。太った裸の女性に、精神病患者が色とりどりのペイントボールを投げつけたり、版画用ローラーで部屋の至る所を塗っていく。痛々しいほどの原色が空間を飛び回り、そして交わり言い表せぬような汚い色へと交わる光景だけでも十分に魅力的なのだが最大の功績は患者だ。なぜなら、監督はその役を俳優にではなく、本当の精神病患者にやらせているのだ。虚構の中の狂気は嘘っぽく、そして薄っぺらく見えがちな点を完全に回避して描けている希有な作品だ。

乗るか反るかはかなり分かれる作品である事は間違いないだろうが、この作品が問いかけるメッセージは人間にとって普遍的な問題と言える。この映画に対する嫌悪それ自身が、サドやポーの作品との同一性を物語っている。
すくなくとも他の映画では絶対にできない映画体験を本作では味わえる。


2013年11月2日土曜日

評/感想 【魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語】 虚淵玄はクリーニングした風呂敷で、ケツを拭いた 


2011年のテレビアニメの「魔法少女まどか☆マギカ」(以下まどマギ)が2作の総集編を経て、遂に完全新作の劇場版を公開ということで巷では大ブームになっている。
公開から一週間が経つ11/1に鑑賞してきたが、全席埋まっているといて、大変な人気を伺いしれた。

アニメファンの為の作品だけあって、当然前作の予習と復習は必須なつくりになっている。完全に一見さんお断り状態なのでブームに乗っかりたいというだけでいくのは意味不明な2時間を過ごすことになるので注意が必要である。

さて、本題の批評に移りたい。結論から言えば駄作である。クリーニングにだし、丁寧にアイロンを掛けた風呂敷で下痢便を拭くような映画だ。
理由はとても簡単である。この作品にはドラマが完全に欠落しているのだ。

デレビ版まどマギは先鋭的な映像、見事な演出、そしてなにより「少女まどかが承認されている日常を賭してでも、世界を救おう」という選択のドラマ性が評価された。この物語の構造は、アニメ史的に観てもセカイ系の超克を意味するというエポックメイキングな作品だった。

対して劇場版まどマギは誰も選択を行わない。ただの人形遊びでしかない。

本作の主人公はまどかから、ほむらへとシフトしている。
以下ほむらに端折った形であらすじを観てみよう。

ほむらが、見滝原中学へと転校してくる所から映画は始まる。それはまるでテレビ版第一話のようなのだが、彼女自身はテレビ版全ての記憶を引き継いでいる。そのため円環の理となったまどか、魔女と化し殺されたさやか達が生存していることに疑問を抱き世界の秘密を解き明かそうとする。 
彼女は見滝原の外へ出てみようとするのだが、どのようにしても出られない。本物だと思っていた世界は、見滝原を完全に再現した魔女の結界だということをほむらは推測する。(この辺はビューティフルドリーマーっぽい)
推測から他の魔法少女の誰かが実際は魔女だという仮説を建て戦いを挑む。しかしその末に魔女の正体は自分自身である事を悟る。ほむらの実態はインキュベーターに捉えられ、魂を幽閉されたソウルジェムの中で円環の理であるまどかの能力を観察することによって感情相転移エンジンの設計を画策していたのだ。ほむらは憤慨し、自ら魔女となり魔法少女たちに殲滅されることによってその謀略を失敗させようとする。

魔法少女達の活躍によって、インキュベータの企ては失敗に終わる。実態のいる世界に戻り、ほむらのソウルジェムを浄化するためにアルティメットまどかが彼女に触れようとすると、ほむらはまどかの円環の理の一部を奪い取り、悪魔となるのだった。
以上があらすじだ。なんだかんだ言ってあらすじだけを観るととても面白そうに見える。というか、今私は書いていて「こんなに面白そうな映画だったか?」と自問してしまった。

しかし、実際にこの映画はこのような素晴らしい設定達を全く活かせていない。なぜならほむらが闘うということは、彼女にとっても、我々にとっても自明だからだ。

まどかの為にただただ戦い続けるというのは前作で大変な感動を産んだ彼女のいわゆる萌えポイントであり、キャラクターの設定としては確かに有用だ。しかし、作劇という観点において本作ではそれがそのまま悪い部分になっている。

何かのアクシデントが起きたならば彼女はすぐさま闘う。戦いへの葛藤が一切無いからだ。なのでドラマが産まれる余地がないのだ。それにより、物語としての盛り上げもできないし、どのような心情で闘っているかの感情移入が一切できないのだ。つまり、いくら素晴らしいアクションシーンが出てきても我々はそのアクションに燃えることができない。
そして次第にそれは闘わなければいけないという風に見えず、ただ闘わせるという役割のためだけに彼女に困難を背負わせているような作劇になり全体を陳腐化している。(不条理を極めようとしていたアニメが、予定調和に陥っている。なんという悲劇)

葛藤が一切無く、ただ一人で突っ走りドラマが産まれない本作では当然我々は萌えることが出来ない。ほむらが「愛よ」なんて言っても、なんの過程も踏まれていない故にそのメッセージは恐ろしく薄いのだ。最高の百合アニメでもあったのだが、劇場版は「汗臭いおっさんが無口な人形にペニスをすりつけている」ようなグロテスクな愛だ。

総括すれば、本作はドラマの欠如により、萌えも燃えもなくなった欠陥作品だ。

最後に私なりの解釈を付け加えたい。

少女を闘いを観測しエネルギーに変換するインキュベータというのは、少女の苦難に興奮する私たち自身を指している。度々画面に現れるQBの目はすなわち私たち自身の眼球だ。しかしインキュベータは映画のラスト、悪魔の使いへと身を落とし扱き使われることとなってしまう。それはマスターベーションにより、キャラクター達にたいして優越感を抱いていた私たちは実際は上手い様に彼女達の手玉にとられ、まんまと劇場へ足をはこび金を貢いでくた私たちの姿なのだ。


2013年10月30日水曜日

R100評 呪われた松本ブランド



「R100」松本人志監督、松本ブランドが出来たと自信
http://news.mynavi.jp/news/2013/09/25/060/

松本ブランドというのはあながち間違いではない。
公開前からネット界隈ではコケる、駄作というレッテルを貼り続けられ圧倒的不利な状態からの上映となった本作をとりまく状況は一種のブランドといって差し支えないはずだ。

22歳の私はごっつええ感じやビジュアルバムなどの松本人志全盛期とは無縁だし、ガキ使なども毎週欠かさずみるようなタイプでもないのでファンとも言えない人間である。そして、映画も一作も観ていない松本ブランド童貞だ。
そんな松本ビギナーが今回はR100を評論したい。

この映画に対して大きく分けて二つの感想を抱いた。
一つは、思っていた以上に松本人志の笑いは面白いということ。私は数回映画館で吹き出してしまった。
二つ目は、彼自身が最も松本ブランドに固執しているということ。そしてこれこそが、R100の最大の汚点のメタ視点を作り出している。


松本人志がR100で目指した笑いは以下のようなものだ。
キャストの演技について松本は「シリアスに演じてもらうことで、圧力釜の蒸気となって、笑いが勝手に噴き出る」と独特の表現。作品を彩る色合いがレトロだという評価に関しては「好きな世界が『昭和』のイメージ。怖さを画面から出せたらいい」と狙いを語った。http://natalie.mu/owarai/news/100038

これについてはかなり成功をしていたと考える。
予告編から感じていたことであるが、日常のなかに突如SM嬢が現れるというR100の構造は松本人志の一つの代名詞と言っていい「笑ってはいけないシリーズ」に非常に近い。
映画の前半は割と真面目に映画というフォーマットを意識した物語展開をおこない、それをプロの役者がシリアスに演じている。
シリアスの中に遺物が流入してきた時の映画的演技が見事に「日常に流入した非日常に対抗する日常の滑稽な姿」を写しだし、これは見事な笑いを作り出している。

その顕著なシーンは寿司屋だ。ライムスター宇田丸は評で「ビジュアルバム(http://www.nicovideo.jp/watch/sm14408199)の劣化コピー」と語っていたが、これは大きな間違いだ。確かに宇田丸の言う通りビジュアルバム版での寿司はそこにある狂気が笑いのポイントとなっていたが、本作でのポイントは「非日常の中の日常感」だ。現実により近いリアリティラインを設定したこともこのシーンでは有効に働いている。


とは言っても、今のような褒められるところは一部に留まる。全体としてみれば悪いシーンが多すぎるというか、映画の構造がそもそもの欠陥品だ。
あちらこちらで、触れられているがこの映画は「100歳の映画監督がつくった」というメタ視点を持っている。そしてメタ視点の中で先回りをしたように、観客が抱きそうな感想を映画関係者がツッコミを入れる。

これは最低な逃げだ。あらゆる作品の荒に対する批判を一挙に、自分のもとから遠ざけようとしているのである。
「誰も見たことのない作品」というのはあながち間違いではない。表現者が直接的に批判から遠ざかろうという最も愚劣な行為を私は見たことがないのだから。

結局のところ松本人志自身がもっとも松本ブランドを意識している。その結果鬼才松本という側面は完全に消滅し、自身のイメージの保身に全力を注ぐいびつな自意識だけが残っている。それは作中の100歳の映画監督ともっともかけ離れた存在だ。

「映画を壊す」前に松本ブランドを自ら壊さなければならない。

2013年10月16日水曜日

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカのロジャー・イーバートによる解説



ロジャー・イーバートによる解説を和訳しました。

原文
http://www.rogerebert.com/reviews/once-upon-a-time-in-america-1984

一度殺された映画が、蘇りビデオとなった。
アメリカ公開時上映時間が90分あまりに切り刻まれ為に理解不能なムードもセンスもかけらも感じられなかったたセルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は、227分に延長され、欲望と暴力の偉大な叙事詩へと生まれ変わった。
アメリカ以外の世界ではオリジナルのフィルムで公開され、私もカンヌ映画祭で鑑賞する事が出来た。だがアメリカでは悲劇が起きてしまったのだ。

私はカンヌで見た後以下の文章を記した。
「この映画は長すぎるか?答えはイエスであり、ノーでもある。すべてはアヘンが見させた悪夢かもしれないという構造や、多くのキャラクターが織りなす50年にも及ぶ人間ドラマといったレオーネの複雑な演出を理解するために集中できる時間としては長すぎる。しかし、この一大叙事詩は我々を退屈にさせないという点では、決して長くない。」

この映画はニューヨーク生まれの4人のマフィアの50年の人生を描く。彼らは少年時代から無慈悲な犯罪を繰り返すが、固い友情で結ばれている。あるときその中の一人が彼らの絆を壊す、あるいは壊したと思い込み、年老いるまで罪悪感に苛まれ続ける。しかし後に、彼は自分は裏切り者ではなく、仲間に裏切られたという事実を発見する。レオーネのオリジナルバージョンは、このストーリーにフラッシュバック、記憶、夢を取り入れ複雑化させている。
映画は二つのおぞましい暴力シーンから始まる。ロバートデニーロがアヘン窟に逃げ込む、するとバックグラウンドに延々と電話の呼び鈴が流れ始め、警察が裏切りを告発する。これらのシーンは映画の空気感を醸成する。
そしてフィルムは、彼ら4人が仲が良かった時代へと巻き戻される。

これらの素晴らしいシーンの数々はいまではDVDでみられるようになったものの、劇場公開時はほとんどがカットされてしまっていた。印象的な長い呼び鈴も、その時は一度しか鳴らなかった。詩的なカットの移り変わりを記したフィルムは切り刻まれ、明確な時代順に並び替えられた。しかし、その作業は完全に失敗し、観客のまえには理解不可能な映像が提供されたのだった。簡単な構成をめざした編集が理解不能な作品を作ってしまったという大変な皮肉があったのだ。

さらに短縮版にはいくつかの重大な欠陥がある。禁酒法が施行されるより以前にもぐり酒場のシーンが登場する。さらに、映画を観る限りだと、試行の翌日には撤廃されたかのように見えるが実際には6年間の期間がある。
また、二人のマフィアが娼婦たちの前で銀行強盗の計画を立てているように見えるシーンがあるが、完全版では当然彼女たちに席を外させている。労働組合のリーダーが買収されるシーンの整合性も意味が分からなくなっているし、デニーロのガールフレンドを殺害した犯人も誰だかわからない。
そして最も馬鹿な間違いが映画のラストにある。ロバートデニーロは一度も来た事の無い建物から、隠し扉を使って外にでるのだ。いったいどうやって彼はそれを知ったというのだ?

その他短縮版ではいくつもの映画史に残るような美しいシーンが消されてしまっていた。突然フリスビーがなげられることによって映像がフラッシュフォワードされるシーンや、遠い日々を思い返しているシーンでどこからともなくビートルズのイエスタデイが流れてくるシーンどれもすばらしい。

2013年10月15日火曜日

第九地区はまぐれだったのか!? 『エリジウム』に超ガッカリ


遅ればせながらエリジウムを観てきました。(10/14@バウスシアター)

SFには現実問題を寓話化できる機能を備えている。ニール・ブロムカンプ監督は前作『第九地区』でアパルトヘイト問題を、地球人による宇宙人への差別に落としこみ、社会に対する批評性を持ちながら、娯楽としても文句なしの名作を作り上げた。

前作の成功から5倍もの予算を獲得し、ブロックバスター作品として満を持して登場したのが『エリジウム』だ!

板野サーカス(マクロスシリーズのようなミサイルの弾道)を描くようなオタク気味の監督にビッグバジェットを得たのならすごいものが観られるはずだ!予告編では前作で見せたような荒廃都市、その対極に置かれるガンダムのコロニーのような宇宙住居エリジウム。クオリティ、規模が第九地区を大きく上回る本作に期待を抱かずにはいられなかった。個人的にはパシフィックリムを超えるのではないかなんて思ってもいた。

感想を端的に言おう、
超駄作!!!

2145年地球は荒廃し、富裕層(エリート)は宇宙コロニーに移住していた。工場での事故で致死量の放射線を浴びて、余命5日と宣告されたマックス(マットデイモン)はコロニーにある医療装置(どんな怪我でも、病気でも治る!すげー!)を求めてエリジウムに乗り込むために奮闘する。

アメリカの医療格差問題、経済的な南北問題、オキュパイウォールストリートなどを意識し、そのような不公平さを寓話化しようという試みは一定の成功を収めている。しかし、いまさら富の偏りを訴えられても「それで?」という感想を抱いてしまう。あまりにも自明すぎるのだ。
そして第九地区ではアパルトヘイトを受けた黒人が宇宙人を差別するという構造が面白さがあったのだが、そのような凝った設定もない。
はっきり言って、これくらいの社会問題の提起なら中学生がノートに書く漫画だって可能だ。

そして残念な事に前作でのもう一つの核だった、娯楽性がこの陳腐なテーマを語る為に大幅に損なわれてしまっている。
この映画の肝となるガジェットの一つがパワードスーツだ。攻殻機動隊のような神経接続をし、半電脳化のような仕様なのだ。とても魅力的なこのパワードスーツがストーリー上の大きな障害になっている。

マックスは放射線を浴びたことにより、生体機能が大幅に弱体化したためこのスーツを武器に闘うのだが、のちに敵に捉えられ映画を盛り上げるためのピンチを演出しなければなる宿命を持つ。故に強すぎても、弱すぎてもいけない。
なのでかっこいいメカを着込んでいてもケンカパンチ&ケンカキックで一般兵と延々闘う。撮影も単調なので、とにかく退屈で面白みがない。前作の、半宇宙人となった主人公が宇宙人専用武器を一人つかってチート級の強さを見せたような爽快感はかけらも残っていない。

脚本の為に意図的に設定を陳腐化させているのは、このパワードスーツだけではない。至るシーンに現れているし、大落ちもどうようのガッカリ感が存在する。
それについてはいつか追記しようと思う。

そうは言ってもエリジウムの全体のデザインはすばらしい。
しかしこれも監督よりは、ターンエーガンダムやブレードランナーをデザインした天才プロダクトデザイナーのシドミードに負うところが大きい。

娯楽性というか、鑑賞に耐えられるレベルの作品でもないのにコンセプトやメッセージを叫ばれたってそれはウザイだけだ。単純に楽しめる映画を作れる監督だと僕は信じているので、次回はエンターテインメント第一に作品を作ってほしい。

2013年10月10日木曜日

CHRONICLE -クロニクル- は「人間」を描けてるイケてるSF映画だった 最高


巷で話題沸騰中の映画クロニクル観てきました。

いじめられっこの高校生が超能力を手に入れたらどうなるか。
主人公のアンドリュー少年の内面の葛藤あるいは、成長を超能力をギミックとして丁寧に描けている作品だ。

この映画の一つの特徴であるPOVも、(もちろん低予算でCGの荒を目立たせないための苦肉の策という面もあるが)アンドリューのパーソナリティを描く道具としてちゃんと機能している。

アンドリューがカメラを手に入れた日から映画は始まる。
彼が最初に撮影したのは、鏡に映った自分の姿だった。そのショットを撮りながら、「これからおれは人生の全てを記録する」と呟く。
学校でいじめられ、家でも虐待をうけている彼のいびつな承認欲求が垣間見えるファーストシーンだ。

しかし、そんな人生に転機が訪れる。
いとこのマットに誘われホームパーティに連れられて行くと、ひょんなことから人気者のスティーブと三人で森の中にある謎の穴に潜ることになる。
その奥には、巨大なクリスタルがあり、彼らはそれにより超能力を発現していく。

それまで、アンドリューの悲惨な日常を綴ってきたが、
ここからはアメリカンパイを彷彿させるような青春コメディ風にテイストが変わる。
超能力が目覚めた三人は、レゴを動かすようなしょぼい修行をへて、街にでて実践をおこなっていく。
もう、何をするかが分かっただろう。
そう、スカート捲りだ。

この辺はとにかくたのしい。
誰もがやりたくなるようなイタズラをさんざんしまくる。
そして、さながらずっこけ三人組のような楽しいホモソーシャルの空気感もリアルで青春映画として素晴らしいのだ。

ただもともと、非モテでいじめられっこのアンドリューは彼らにコンプレックスを抱いている。特に自分だけセックスをしていないということが最大のコンプレックスなのだ。

マットとスティーブは、そんな彼を人気者にしようと学校のタレントショー(歌やダンスなど一芸を披露するイベント)をに出場させる。
アンドリューは超能力をつかったマジックを使って見事優勝。一躍学園のスターになったのだ。さながらナポレオンダイナマイト(バス男)みたに。

しかし、彼の人生の絶頂はそう長くは続かなかった。
打ち上げのハウスパーティにVIPとして招待されたアンドリューはみごと女の子をゲット、ベッドルームでいざ挿入...という時にゲロを吐いてしまうのだ。
そしてそこにスティーブが「ブラザー!初体験の感想聞かせてくれよ!」と言わんばかりに入ってくると、アンドリューは激怒。
この世の全てを拒絶するかの様に自分の世界に没入していき、壮大な友達同士の喧嘩がはじまる...

アメリカンパイを筆頭とする脱童貞コメディ映画は、大量に作られた。
しかし、その映画の中の童貞たちはみな一様に、底抜けに明るかった。
だがそんなことなんてなく、アンドリューのようにコンプレックスを抱いたり、それを馬鹿にされたら烈火の如くキレてもおかしくないはずだ。実際に監督は、ボウリングフォーコロンバインを観させたそうだ
あるいは、いびつな承認欲求とコンプレックスは僕ら日本の観客からすると、秋葉原事件の加藤を想像させるかもしれない。
監督はキャラクターをちゃんと描く事が出来る。当たり前のことだけど、昨今の映画業界にはなかなかそんな監督が少ない。
まちがいなく、これからビッグになる監督だ。

もちろんアキラを彷彿させる映像も素晴らしい!低予算にもかかわらず、かっこよく決まってるカットがいくつもあった。

次回、大きな予算でファンタスティックフォーを撮る事が決定しているそうだが、きっと成功するだろう。

2013年10月4日金曜日

J.Sミル 自由論 第一章「はじめに」 レジュメ

ゼミのレジュメ


J.S.ミルと19世紀のヨーロッパ 
1802年ロンドンで産まれる。自由論は1859年に出版された。
フランス革命とナポレオンの登場の最中に19世紀は始まり、西ヨーロッパには自由主義とナショナリズムが広がる。この頃のイギリスは圧倒的な工業力を背景に、世界中に植民地を敷く。パクスブリタニカの中心、東インド会社にミルは勤めていた。
1820-40年代にかけ議会背民主主義が普及、同時に「人民の意見=真理」とみなし、少数派を弾圧する危険がおこり、民主化がもたらす弊害が認識されるようになった。
また社会主義運動も盛んになり、資本主義の限界も指摘されはじめた。1848年にマルクスが共産党宣言を発表する。女性権利運動も活発化、ミルもこれに参加。
(参考:解説、山川詳説世界史)

「本書で展開される議論はすべて重要な基本原理に帰着する。それは、人間の多様性がもっとも豊かに発展していく事こそ、絶対に大切であるという原理である」 ヴィルヘルム=フンボルト 『政府の権原と義務』(1851年)
プロイセンの政治家であり、ベルリン大学の創始者。

「本書のテーマは、--意思の自由ではなく、市民的な自由、社会的な自由についてである。逆に言えば、個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界を論じたい」 p12
明確に要旨を記した一文であることと同時に、「意志の自由」という文言から功利主義の批判者カントへの応答であることが伺える。

人類の進歩と自由

支配者と被支配者が対立していた時代の自由 
支配される側と政府が対立していた時代「自由とは、政治的支配者の専制から身を守る事を意味した。支配者は、支配される民衆にかならず敵対するものと考えられた」p13

権力は外的から身を守る為に不可欠ではあったが、同時にそれは国内の民衆に向けられるものでもあった。

「したがって、国を愛する人々が求めたのは、支配者が社会に対して行使できる権力に制限を設けることであった」p14

権力制限の二つの方法
1.     負担の免除を認めさせる事。人々はこれを権利と称し、支配者に侵犯された場合には、義務違反として反抗も正当化される。
2.     憲法に基づくチェック。支配権力が重要な行動をするときには、条件として社会の同意が必要とされる。

被支配者が支配者を選択する時代の自由
権力を制限するのは、支配者と国民の利害が常に対立していた時代の方策であり、支配者を被支配者が選択する時代において必要なのは、支配者と国民が一体となる事。

支配者が国民に説明責任を負い、国民によって解任されるものとなったとき、「権力は、使いやすい形となった国民自身の権力にほかならない」p16

多数派の専制の時代
地上にアメリカの様な民主的な共和国があらわれると、「『自治』とか、『人民に対する人民の権力』といった言葉は、ものごとの実相をあらわすものではないことがわかった。権力を行使する人民は、権力を行使される人民とかならずしも同一ではない。また、いわゆる自治とは、自分が自分を統治する事ではなく、自分以外の全体によって統治されることなのだ」 p18

「人民の意思というのは、じっさいには人民の最も多数の部分の意思、あるいは、もっともアクティブな部分の意志を意味する。多数派とは、自分たちを多数派として認めさせる事に成功したひとびとである。それゆえに、人民は人民の一部分を抑圧したいと欲するかもしれないので、それにたいする警戒が他のあらゆる権力濫用への警戒と同様に、やはり必要なのである。したがって、社会内の最強のグループに説明責任をはたす様になっても、個人に対する政府の権力を制限する事は、その重要性をすこしも失わない」

「社会それ自体が専制的になっているとき、その抑圧の手段は、政府の役人が行う活動に限られるものではない。-- 社会は、社会自身がくだした命令を自ら執行している。-- それが、社会が干渉すべきでないものごとについての命令であったりすれば、社会による抑圧はたいていの政治的な圧迫のように極端な刑罰をちらつかせたりはしないが、日常生活の細部により深く浸透し、人間の魂そのものを奴隷化し、そこから逃れる手だてをほとんどなくしてしまう」 p19

「役人の専制から身を守るだけでは十分ではない。多数派の思想や感情に夜抑圧に対しても防御が必要である。すなわち、多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なる人々に、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押し付けてくるような社会の傾向に対して防御が必要である。」p20

個人の独立と社会による統制の調整にあたっての問題

集団の意見が個人の独立にある程度干渉できるとしても、そこには限界がある。しかし、限界については未解決のままにのこされている。その規制がどのようなものであるべきかは、人間生活にとって大問題である。

「この問題は、異なる時代、国ごとに、異なった答えが提出され、その答えは、異なる時代、国においては奇異なものとなる。しかし、どの時代、国においても人は自分たちが決めた事に疑いを抱かず、人類が一貫して同意してきたものの様に考える。すでに出来上がった規則を当然で、自明なものと見る。こうした幻想がどこにでも普遍的に存在するのは、習慣に魔術的な力があることを示す」p21


人々は道理よりも感情を大事にする。その感情、すなわち好き嫌いを左右する最も一般的な因子は自己利益である。「支配的階級が存在する国では、その国の道徳の大部分は支配階級特有の優越感からうまれる」p23

「社会全体、あるいはその有力な部分に広がった好き嫌いの感情こそ、社会が全体として守るべき規則、そして守らねば法律や世論によって罰せられるという規則を定めた事実上の主役である」 p23

これまでの思想家は多数者の好き嫌いが社会的強制の根拠になることを問題視せず、個別の好き嫌いのみを変えようとした。
信仰問題は事情が異なり、信教の自由は個人の権利の問題であるという原理の問題として主張された。寛容の義務は表面的には認められたものの、多数者の感情に少数者は従わざるをえないままとなり、実際には実現しなかった。
P25

イギリスでの政治状況
他のヨーロッパとくらべて、世論による束縛は強いが、法による束縛は弱い。個人の独立が尊重されているからというよりは、政府と民衆の利害は対立するものだと考えられてきた習慣による。
法律により個人の管理を行う事に反感を覚えるが、それは確たる原則によるものではなく、政府に好感を抱いているかどうかによる。「原理、原則が無いまま選択されたものは、どちらの側であれ同じ様にしばしば間違いを犯す。」 p27-29

他者危害原則、あるいは自由原理

本書の目的は、極めてシンプルな原理を明示する事にある。社会が個人に干渉する場合、その手段が法律による刑罰という物理的な力であれ、世論という心理的な圧迫であれ、とにかく強制と統制の形で関わる時に、そのかかわり方の当否を絶対的に左右するひとつの原理があることを示したい。

その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、他の人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自営の為である場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、他の人々に危害が及ぶのを防ぐ為である場合に限られる。 P29

·       他者の生命や、財産を侵害しないかぎりにおいて自由に行動する権利をもつという原理は17世紀から唱えられ目新しいものではないが、ミルの発想で斬新なのは、それを民主主義の制約原理として捉え直し、新たな意味を与えた点である(解説)

パターナリズムは説得の根拠にはなっても、干渉を正当化する十分な理由にはならない。干渉を正当化するためには、相手の行為をやめさせなければ、ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要である。

「本人のみに関わる部分については、当然ながら、本人の自主性が絶対的である。自分自身に対して、すなわち自分の身体と自分の精神に対しては、個人が最高の主権者なのである。」 p30

こどもや野蛮人にはこの原則は適用されず、外部からの危害にたいしても、本人自身の行動に対しても保護が必要なはずだ(恒久の利益の視点)p31

「強制が認められるのは、唯一、ほかのヒトの安全を守るのが目的である」p32


効用

「効用こそがあらゆる倫理的な問題の最終的な基準なのである。ただし、それは成長し続ける人間の恒久の利益に基づいた、最も広い意味でのこうようでなければならない。こうした恒久の利益という視点に立てば、個人の自発性を外部から統制する事も正当とされると言いたい。個人の行動が他の人々の利害に関係する時、その時だけは外部からの統制にしたがわなければならない」  p32

他者を害する行為が、法律によって罰せられるように、人命救助など、他者を益する行為として肯定されるものは、強制しても正当とされる。こうした行為を実行しなかったとしたら、社会に対する責任を問われても正当だ。 とはいえ、社会が個人を力ずくで統制するよりも、個人の裁量に任せた方が、より全体としてよいこともありうるので、強制的に責任を負わせる事に関しては慎重になる必要がある。p33-34


人間の自由の固有な領域

社会が個人に対して、せいぜいのところ間接的にしか関与できない活動の領域がある。個人の私生活と私的な行為の部分である。それはじぶんにしかえいきょうをあたえず、また、仮に他者にも影響を与える場合には、相手もきちんとした情報に基づいて自由かつ自発的に同意し、関与している分野である。したがって、自分にしか影響を与えない部分こそが、人減の自由の固有の領域なのである。

1.     もっとも広い意味での良心の自由。あらゆる問題について、意見と感想の絶対的な自由
2.     自分の性格にあった人生を設計する(行為の)自由。人から間違っているといわれても、人に迷惑をかけない限り、人から邪魔されず行動する自由。
3.     団結の自由。 P35-36

「こうした自由が大体において尊重される社会でなければ、そこは、どんな政治体制をとっていても、決して自由な社会ではない。また、こうした自由が絶対的に無条件で存在する社会でなければ、そこは決して完全に自由な社会ではない」p36

現代においては、宗教が個人に道徳的な抑圧を行なっている。p38

「世論の力と法律の力をあわせて、個人に対する社会の支配力をどこまでも拡大しようとする傾向は、今世界全体に広がっている。そして変化は全て、社会の力を強め、個人の力を弱めて行くものであるから、社会による不当な干渉は、決して自然に消滅して行く害悪ではなく、コレから益々恐ろしいものに成長して行く」p39


以上

2013年9月26日木曜日

ヤンキー妄想映画? 「グッドフェローズ」



いまさら映画批評第二回、グッドフェローズです

実はグッドフェローズというのは邦題で、この映画原題は「good fellas」発音だとグッドフェラ、アレを想像してしまう為にフェローズに変えられています。fellaも男などを意味するので、そこまで意味は変わっていない比較的良邦題ですね。

男ならだれしも、一度はワルになりたいと思ったことがあるでしょう。
単にかっこ良く思えたり、正直者が馬鹿を見る現実を目の当たりにし手段を選ばない方法としてのワルだったり、金、権力、女を求めるが故であったり、理由は様々でしょう。

ギャングが支配する街に育った主人公ヘンリーヒルも同様にワルにあこがれを持ち、11歳でギャングの使いパシリとして働きはじめます。
そんな少年が、アホな!ときっと思うでしょう。しかし、ヘンリーは実際に存在し、彼の半生を忠実に映画化しているのです。

ヘンリーのキャラクターにはもう一人のモデルがいます。それこそ、監督のマーティンスコセッシです。
スコセッシはイタリア系アメリカン人でニューヨークのギャング街に生を受け、映画の中と同様にご近所さんがマフィアだったのです。

そんな社会で育ったスコセッシのワルにあこがれ、社会の矛盾に怒り、正義を考える様々な感情の葛藤が大きく物語りに反映されているのです。

物語自体はゴッドファーザーのようにマフィア映画の王道をいく、成り上がりと破滅を描いているのですが、グッドフェローズはマフィアをかっこ良く描かず、くだらないファミリーのルールに縛られた都会の中にいる、村社会の田舎者のように描いています。

ニューヨークにも関わらず、縄張りの関係でクイーンズという小さな街だけが舞台でほど近いマンハッタンは出てこなかったり。彼らの会合も常に同じパブ。外部の人間とつるむのは御法度で、バレたら消されてしまったり。
地元のヤンキーが居酒屋でだべってる延長線上のマフィア映画なのです。

この映画のもう一つのハイライトは音楽です。エンディングが愛しのレイラだったりと、、スコセッシならではのロックンロールが延々と流れています。
それは単に彼の趣味だけではなく、彼が撮ったウッドストックの対になる意味を持っているのだと思います。
セックス、ドラッグ、ロックンロールというように、ある時代までロックにはドラッグがつきものでした。
愛と平和の祭典の裏に、マフィアが取引するドラッグが存在していることを告発しています。

いまさら見ても名作です!

2013年9月25日水曜日

映画のリアル 「燃えよドラゴン」



「いまさら映画批評」というジャンルを作って今更感のある映画を見て、雑文を垂れ流そうかなと思っています。

で、最初に選んだのが「燃えよドラゴン」です

見た事がない人に軽く説明をするならば、イメージ通りのブルースリーがとにかく、イメージ通りのアクションをする映画と言うのが最適でしょう。

そんな40年前のアクション映画がなぜ、未だに名作と言われ続けているのか。
この映画に紛れも無いリアルがあるからです。

アクションスター、ブルースリーが実際に武術が強いのかは定かではないですが、映画の中でブルースはノースタント、ノーCGでとにかく相手をばったばったと叩きのめします。
身体能力を最高にかっこ良く見せる為に作られた映画なのです。

アニメーションだろうと、CGだろうと、ワイヤーアクションだろうとどれだけそれらの技術を極めたところで、ブルースが醸し出すリアルの迫力にせまることは間違いなく不可能なのです。

もはや映画のキャラクターとしてのブルースではなく、ブルースリーというひとりの人間が映画になってしまったからこそ風化せず、未だに名作として残り続けているのです。これこそがリアル!

あと、ストーリーもこの手の映画にしては興味深い。
アヘン戦争、そして租界と英国に蹂躙されてきた香港を舞台に、中国人マフィアが逆にイギリス人のブロンド美女をクスリ漬けにしてしまうというのは、この映画自体が西洋に対するカウンターアタックとして作ったぜ!というメッセージの現れなのでしょう。

名作という名に間違いないです!

2013年9月15日日曜日

パシフィックリムの原点 「ミミック」


パシフィックリムでデルトロを知ったという人も多いでしょう。
そんな諸兄にもっとデルトロをしっていただきたい!
ということで、今回はミミックをレコメンドしてみたいと思います。

パシフィックリムの良さはガシンガシンと玩具であそぶ時の僕らの想像をそのまま映像にし、さらにそれをエクストリームに増幅させたところでしょう。
観客を驚かせる映画には二種類あると僕は考えます。
一つは、予想と反対のストーリーを描くもの。
そしてもう一つは、我々の予想を追い超し、さらに設定を鋭利にしていくものです。
デルトロはまさにこの二つ目のタイプであり、彼以上にその能力に長けた映画監督はなかなかいないでしょう。

ミミックを一言で評するなら、パシフィックリムでの格好良さへの想像力を全て気持ち悪さに傾けた映画なのです。
近未来マンハッタンではゴキブリ媒介源とするストリックラー病により、多くの人命が失われ、助かった者も重い後遺症に苦しめられていた。有効な治療法のないこの病気に対し、ニューヨーク疫病予防管理センターのピーターから要請を受けた昆虫学者のスーザンは、ゴキブリだけを殺し、一定期間後に死滅する新種の昆虫ユダの血統」(Judas Breed)を遺伝子操作によって創造した。放たれた「ユダの血統」は短期間で多数のゴキブリを駆除し、ストリックラー病は根絶とまではいかないものの、事態は沈静化。「ユダの血統」の存在は創造主であるスーザンからも忘れ去られていった。
それから3年後、ニューヨークのとある駅周辺でホームレスが次々と行方不明になる事件が発生。スーザンが持ち込まれた巨大な昆虫幼虫らしき物体を調査した結果、死滅したはずの「ユダの血統」が生き延び、密かに繁殖している事が判明する。彼らを絶滅させるべく行動開始するスーザンだが、3年の月日は「ユダの血統」を人類の天敵となりうる生命体へと進化させていた。

この映画の肝は虫という身近なものだからこそ、触感が容易に想像できてしまう点です。触覚、かぎ爪、そして粘液、デルトロはそれらを執拗に想像させるような描き方を続けることによって観客を映画の内部へと引き込みます。

翻ってストーリーの現代への批評性もとても高い作品でもあります。
人間の作り出した汚染された地下環境により、人間は病を発症したり、ホルモン異常による不妊に苦しむ一方、昆虫たちは環境に適応し、より強力になるという皮肉は日頃のニュースでもよく耳にする所でしょう。
また随所にキリスト教モチーフを入れながら人間の業を視覚的に表現もしているところも大変うまい。

とにもかくにもパシフィックリム2を待てない人はこれを見て待ちましょう!

2013年8月20日火曜日

ゴジラとサブカルチャーの原イメージ

パシフィックリムの予習というか、自分の興奮度を高めるために1954年ゴジラから年代を追って見ています。

純粋におもしろいのもさることながら、今ゴジラを見る意味はゴジラが日本のサブカルチャー史の原点にあることにあると思います。
もちろんテレビの放映は始まっておらず、漫画雑誌の創刊もなかった時代にゴジラは産声をあげました。つまりゴジラこそがサブカルチャーの原イメージなのです。

そしてゴジラ的要素は根強く今のサブカルチャーに残り続けています。
一つは原子力というモチーフです。ゴジラが水爆から産まれたということは説明するまでもないですが、それはアトムへと、ヤマトへ、ガンダムへ脈々と受け継がれ、そのころからより強大なモチーフに変わっています。

またもう一つおもしろいのが、二作目からゴジラがキャラものへと方針を転換した点です。一作目では築かれた破壊の限りを尽くすゴジラというイメージを、怪獣プロレスものへとある種の陳腐化を行っています。テキストよりもキャラのビジュアルを重視する萌え的手法は既にゴジラで完成されていると見られるでしょう。さらにこの傾向は3作、キングコング対ゴジラでより強化されれいます。

再びゴジラをみると、多くのアニメなどのゴジラのオマージュにも気がつきます。ゴジラを見ずしてアニメは語れないし、語っている人はハッキリいってにわか乙です。

2013年7月26日金曜日

近代主権国家体系の成立と変容にあたって戦争が果たした役割

大学のテスト問題の為の草稿

近代主権国家体系の成立と変容にあたって戦争が果たした役割

 近代主権国家体制以前のヨーロッパはキリスト教世界だった。そこでは、世界は神によって想像された一つの存在であると考えられており、地上の世俗世界における皇帝などの統治権も神の代弁者たるローマカトリックの法王により授けられたものであり、統治権の権威は法王に依存していた。
1517年に始まったルターの宗教改革は、腐敗したカトリック教会に異議を唱え、聖書を介した人と神の直接の対話を主張し、カトリックの絶対的な権威を揺るがせた。同時に教会を頂点とし、下部にあった世俗の権威も崩壊し、王位継承や領地をめぐる領主間戦争、領主に対する農民戦争が、カトリック対プロテスタント間の宗教戦争と絡み合いながら進み、1618年30年戦争が勃発する。
30年戦争でフランスは、旧教国であるにもかかわらず、神聖ローマ帝国の野心を阻止する為に新教をとるスウェーデンを公然と支援する形で、自らの国益の追求という形で国家理性を発動させた。これは自己目的存在である国家の主権の成立にとって一つの契機だった。
 30年戦争の講和条約としてウェストファリア条約が結ばれる。戦争の原因が新教の弾圧にあったため、宗教を理由に他国に干渉する事を禁じた。またルター派と並び、カルヴァン派の信教も認められることとなった。しかし信教の自由は都市単位で君主のみがもつものに限られていた。
 この条約により宗教的権威としてカトリックの絶対性は消滅し、国家は内的には絶対的な権力として、外的には内政不可侵の原則のもと独立性を獲得するという形で近代主権国家体制は成立した。
 主権国家体制は他国への不干渉を原則としていたにも関わらず、非文明国に対しては主権をもたない国であるとして帝国主義政策をすすめた。
 現代のグローバル化は人権侵害への対応や地域統合のため主権は制限される一方、国家の領域を超える企業、テロ組織などのアクターの出現も進行しており、ウェストファリアシステムは、ポストウェストファリアシステムへと移行している。

国際政治史ー世界戦争の時代から21世紀へー ③

第三章 1930年代の危機と第二次世界大戦の起源

世界恐慌と国際体制の崩壊
1920年代の国際秩序の安定に経済の再建は不可欠だったが、ヨーロッパも、アジアもアメリカに依存していた。アメリカは農業、工業の輸出国であり、同時に資本の輸出国でもあった。ドイツの経済復興にはアメリカの投資が不可欠であり、日本は原材料の輸入と生糸の輸出として頼っていた。アメリカはヴェルサイユ体制とワシントン体制の蝶番だった。

アメリカ経済は大量生産、大量消費の新方式のもと発展をつづけたが、ヨーロッパの復興に伴い、農業、工業の過剰生産が明らかになると、ウォール街の株価の大暴落が起きた。ヨーロッパへの借款の停止、投資の引き上げががはじまると、恐慌は世界に広がる。
ドイツ経済はアメリカからの資本の流入が停止すると破綻し、500万人の失業者を失い、賠償支払い能力を失うと、イギリス、フランスの債務支払いも能力を失った。
アメリカ、中国への輸出に依存していた日本経済も、破綻に瀕し、1928年には山東半島に出兵する。
帰結として、イギリスは金本位体制を離脱し、自らの帝国を囲い込むスターリングブロックを形成した。

経済圏の少ない「持たざる国」は恐慌の影響を深刻にうけ、ファシズム体制が設立した。議論はのこるが共通の特徴として

  1. 全体主義と指導者原理
  2. 社会の強制的同質化と独裁政治
  3. 中間層を基盤とした疑似革命要素と反共
  4. 排外主義と膨張主義
に見出す事が出来る。世界恐慌に伴う経済的打撃が国家の混乱をを引き起こし、民主主義のひ弱さ故に、国民の意志による健全な解決を見出す事が出来なかった事がファシズム台頭の条件となった。

ファシズム諸国の対外戦略と宥和政策
ファシズム諸国は実力によって現状打開を目指す。31年に日独が国連から脱退、37年にイタリアも脱退し、枢軸国とソヴィエトが加入した国連が退治する構造が誕生する。
38年ドイツはヴェルサイユ条約を破り、オーストリアを、翌年チェコを併合。ポーランドとの不可侵条約、英独海軍協定も破棄。ワシントン体制を否定した日本も同時期のモンハンでソ連と衝突。

イギリス、フランス政府は友好国との軍事協力により平和の維持を測るのではなく、侵略を黙認し、相対としての現状維持をおこなった。
日本の満州侵略時のエイマーリは「日本を非難すれば、我々のエジプト政策も否定される」と語り、宥和政策の裏に帝国主義的共感があったことが伺える。

ドイツは自主的に締結したロカルノ条約を自ら破棄し、ラインラントを占領すると一時はヨーロッパに衝撃が走ったものの、「自分の裏庭に馬を乗り入れただけ」だと世論、政府は判断しヴェルサイユ体制は終焉した。

スペイン内戦におき、独伊を含むヨーロッパ諸国は不干渉を決定したが、両国は協定を蹂躙し反乱軍に軍事援助を行った。英仏はスペイン共和国政府を見殺しにしたが、紛争を極地化し、ヨーロッパ全体としての平和を求める宥和政策であった。
ヒトラー英仏との平和協力言質を取り付けるのと引き換えに、チェンバレンはズデーデン地方の割譲を認めた。(ミュンヘン会談)