アドセンス2

2013年10月30日水曜日

R100評 呪われた松本ブランド



「R100」松本人志監督、松本ブランドが出来たと自信
http://news.mynavi.jp/news/2013/09/25/060/

松本ブランドというのはあながち間違いではない。
公開前からネット界隈ではコケる、駄作というレッテルを貼り続けられ圧倒的不利な状態からの上映となった本作をとりまく状況は一種のブランドといって差し支えないはずだ。

22歳の私はごっつええ感じやビジュアルバムなどの松本人志全盛期とは無縁だし、ガキ使なども毎週欠かさずみるようなタイプでもないのでファンとも言えない人間である。そして、映画も一作も観ていない松本ブランド童貞だ。
そんな松本ビギナーが今回はR100を評論したい。

この映画に対して大きく分けて二つの感想を抱いた。
一つは、思っていた以上に松本人志の笑いは面白いということ。私は数回映画館で吹き出してしまった。
二つ目は、彼自身が最も松本ブランドに固執しているということ。そしてこれこそが、R100の最大の汚点のメタ視点を作り出している。


松本人志がR100で目指した笑いは以下のようなものだ。
キャストの演技について松本は「シリアスに演じてもらうことで、圧力釜の蒸気となって、笑いが勝手に噴き出る」と独特の表現。作品を彩る色合いがレトロだという評価に関しては「好きな世界が『昭和』のイメージ。怖さを画面から出せたらいい」と狙いを語った。http://natalie.mu/owarai/news/100038

これについてはかなり成功をしていたと考える。
予告編から感じていたことであるが、日常のなかに突如SM嬢が現れるというR100の構造は松本人志の一つの代名詞と言っていい「笑ってはいけないシリーズ」に非常に近い。
映画の前半は割と真面目に映画というフォーマットを意識した物語展開をおこない、それをプロの役者がシリアスに演じている。
シリアスの中に遺物が流入してきた時の映画的演技が見事に「日常に流入した非日常に対抗する日常の滑稽な姿」を写しだし、これは見事な笑いを作り出している。

その顕著なシーンは寿司屋だ。ライムスター宇田丸は評で「ビジュアルバム(http://www.nicovideo.jp/watch/sm14408199)の劣化コピー」と語っていたが、これは大きな間違いだ。確かに宇田丸の言う通りビジュアルバム版での寿司はそこにある狂気が笑いのポイントとなっていたが、本作でのポイントは「非日常の中の日常感」だ。現実により近いリアリティラインを設定したこともこのシーンでは有効に働いている。


とは言っても、今のような褒められるところは一部に留まる。全体としてみれば悪いシーンが多すぎるというか、映画の構造がそもそもの欠陥品だ。
あちらこちらで、触れられているがこの映画は「100歳の映画監督がつくった」というメタ視点を持っている。そしてメタ視点の中で先回りをしたように、観客が抱きそうな感想を映画関係者がツッコミを入れる。

これは最低な逃げだ。あらゆる作品の荒に対する批判を一挙に、自分のもとから遠ざけようとしているのである。
「誰も見たことのない作品」というのはあながち間違いではない。表現者が直接的に批判から遠ざかろうという最も愚劣な行為を私は見たことがないのだから。

結局のところ松本人志自身がもっとも松本ブランドを意識している。その結果鬼才松本という側面は完全に消滅し、自身のイメージの保身に全力を注ぐいびつな自意識だけが残っている。それは作中の100歳の映画監督ともっともかけ離れた存在だ。

「映画を壊す」前に松本ブランドを自ら壊さなければならない。

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