アドセンス2

2014年1月25日土曜日

【ツッコミ】映画『黒執事』 デビルマン級!?映画史に残る一作! その一



昨年2013年末に『ゼロ・グラビティ』が公開され、瞬く間に「映画史に残る」などの賛辞を受けた。そして、幸いにも我々はまたしても映画史に残る作品と劇場で巡り合うまたとない機会を得た。その作品こそが、『黒執事』だ。『ゼロ・グラビティ』が賛辞なら、『黒執事』は大惨事なのだが

棺やな氏原作でアニメ化もされた有名マンガを、映画化にあたり近未来のアジア某国での話に作り替えた。(某国ってどこだよ!という当然の疑問にすら映画は答えない)
設定を活かしながらビジュアル化可能なところに落としこむために世界観に変更を加えることは、悪くないと当初私は思っていた。たとえば、クリストファー・ノーラン版のバットマンはまさしくその手法で成功した映画だ。

と、思っているとこんな記事を発見した。


松橋プロデューサーが参考にしたのは、クリストファー・ノーラン監督による『ダークナイト』3部作。「バットマン」というアメコミを原作にしながらもオリジナルの世界観を構築した同シリーズは批評的にも興行的にも世界中で大成功を収めた。「(映画『黒執事』でも)そういうアプローチを目指した」という(映画『黒執事』はなぜオリジナルストーリーなのか?プロデューサーが明かすhttp://www.cinematoday.jp/page/N0054145


今、日本映画界は空前のダークナイトブームだ。(いまさらかよ!)様々な映画監督がノーランを志、どこをダークナイトに影響されたのだと問いただしたくなる駄作を量産している。巷ではダークナイト症候群と呼ばれたりもしている。中でもガッチャマンの悲劇は日本列島を震撼させた。失敗の轍の真上を走る、『黒執事』は見る前から恐怖心でいっぱいだったが、一度暗くなったスクリーンに再び照射された映画のファーストカットは恐怖を戦慄に変えるものだった。それがこれだ。


真似るのそこかよ!
しかし、そんなことをいちいちツッコんでいる暇を与えてはくれない。


 ゴッサム・シティ...
いくらダークナイトを参考にすると言っても、これはただのモノマネだよ...

すると、世界観を説明するナレーションシーンに移る。
大体の内容は、

世界は東と西に分断されているらしい。
西の女王の権力はすごいらしい。

でも、最近人が突然ミイラ化して死んじゃう事件が連発していて、女王はちょっと心配しているらしい。

ということらしいのだが、ナレーションと全く同じ文章が書かれているだけのスクリーンを眺させるという禁忌的な映画手法をそうそうに見せられるのだ。しかも、文字もすべての漢字にフリガナが振られていてすごく馬鹿っぽく見える。
きっと、この映画の対象年齢は「ひらがな」しか読めない小学1年生向けなのだろう。

そして、次に運転中の外交官がミイラ化する顛末が描かれる。(なら、さっきの説明いらないよね!)
「猛スピードで車の運転中に人がミイラ化したら、車が壁に激突して大変なことになるな!」とか思っていると、


車は不自然にピタッと止まる。
たしかに、近未来なのでスバルの自動ブレーキシステムが装備されていると考えれば、あり得ないこともないが、そんなのいらないから素直にぶつかれよ...
車をクラッシュさせる予算も無い映画なのかと、切なさを感じさせるシーンだ。

でも、ミイラの造形は結構よく出来てる。



はじまって、ここまで3分くらい。
どれだけ書けば、ツッコミがなくなるのかがわからない。いつ記事を書き終わるのかも分からない。
とりあえず、黒執事に関しては連載形式で私の精神に影響を与えない範囲で適量ずつ書いていこうと思います。
では、次回。

2014年1月23日木曜日

【評/感想】『ドラッグ・ウォー 毒戦』「公安の検閲?そんなの関係ねえ!」ジョニー・トーは中国でも健在!



19世紀の英国は、インドから大量のアヘンを中国に持ち込み、国民をアヘン中毒にすることによって亡国へ追い詰め、阿片戦争で勝利すると数々の不平等条約を結ばせた。この歴史的トラウマは未だに中国では根強い。覚せい剤50gの所持程度なら、日本では懲役7年が相場だが、中国では死刑となる。

そうは言えども、金になる麻薬ビジネスは中国でも盛んに行われており、昨年は広州で大規模な覚醒剤工場が摘発された。その末端にいた愛知県の市議が、日本への輸出を行い逮捕された事件を記憶されている人も多いだろう。

ジョニー・トーの新作『ドラッグ・ウォー 毒戦』は中国麻薬シンジゲートと、公安警察の麻薬捜査官の熾烈極まる闘いを描いた一本だ。結論から言うとストーリー、アクション何をとっても最高な映画だった。

覚醒剤の密造で捕まった男を減刑と引き換えに捜査へ協力させ、麻薬シンジゲートに潜入捜査を行い一網打尽を図るというのが大まかな筋書きだ。
ジョニー・トー作品といえば、ダンディな男たちがなにかプロっぽいことを考えている顔つきで、行き当たりばったりに物語が進んでいくが、それがメチャクチャに面白いというパブリックイメージを持たれているが、『ドラッグウォー』は『エグザイル/絆』などと比べると天と地ほどストーリーの密度が違う。
捜査協力者の企み、公安警察の意図、麻薬シンジゲート、そして数々のイレギュラーという多くのアクターの思惑が交差するサスペンス要素がこの作品の魅力なのだ。煩雑になりそうなほどの展開の応酬だが、観客にストレスを感じさせずに分かりやすく捌かれている。

ジョニー・トー自身が告白するように、この作品は幾度も中国公安により手直しを余儀なくされた。最も分かりやすいのは、この作品において覚醒剤は、死をもたらすだけの薬という側面だけで享楽的な部分は一切でない点だ。しかし、ジョニー・トーは当局の目を掻い潜り中国の実情を訴える。

覚醒剤の工場で働いてるのは、聾唖者たちだ。人権整備と、市場経済の歩調が揃わない中国で障害者の居場所はない。文字通り「アウトサイダー」だ。そんな彼らは闇ビジネスに手を染めるほか生活は困難なのだ。彼らは人情に溢れ、他人の不幸に心を痛める善良な人物として描かれている。言うまでもないが、挑戦的だ。

しかし、そこで終わらないのがさすがジョニー・トーと言われる所以だ。我々が完全に油断したところで、彼らにとんでもない行動をさせる。このシーンは、半端じゃなくカッコいい。是非劇場でチェックしてもらいたい。

また、今回ひと味違うなと思わせる場面は麻薬捜査官が製造業者に扮し、マフィアと取引を決める会話劇だ。アウトレイジさながらの言葉と言葉のぶつかり合いが非常にアツい。劇中に「山王会の北条武」という人物が言葉だけだが、登場する。もしかすると、トー自身がアウトレイジを意識しているのかもしれない。


またお馴染みの皆殺しガンアクションは健在だ。いかにも、「中国っぽい!」と思わせるロケーションでの撃ち合いは誰もが興奮してしまうことだろう。

2014年1月22日水曜日

【評/感想】『鉄くず拾いの物語』ドラマの不在が現実へ目を開かせる



「ドキュドラマ」という言葉を耳にしたことがあるだろうか?
「ドキュメンタリー」と「ドラマ」を掛けあわせた造語だ。未知の事実を、ドラマのように見られる形にした映像手法を言う。テレビ番組の「世界まる見え」などで見る再現ドラマに近い形式だ。
ダニス・タノビッチ監督の最新作『鉄くず拾いの物語』は、ボスニアで暮らすロマの家族を襲った悲劇を、彼ら自身に演じさせたドキュドラマだ。

ロマといえば、ヨーロッパに偏在する移動生活者=ノマドを真っ先に想像するだろう。映画で最も有名なロマは、何と言ってもガイ・リッチー監督の『スナッチ』でブラッド・ピットが演じたミッキー・オニールだが。彼らもトレーラーハウスで各地を転々としていた。

だが、実際にすべてのロマが移動生活をしているわけではない。優に300年以上定住して暮らすロマもいる。しかし彼らの内、国籍や医療保険の恩恵を受けているものは少ない。
『鉄くず拾いの物語』の主人公ナジフの家庭も、そのような定住者の一つだ。

ナジフは山に不法投棄された鉄くずを拾い、妻と二人の娘を養っている。だが、その生活は貧しく電気を止められてしまうような家計状況だ。そんなある日、彼の妻セナダは腹痛を訴える。ナジフは彼女を病院に連れて行くと、彼女の胎内の子が流産していることが判明した。このまま放置すれば、じきに敗血症に至り、最悪の場合は死ぬ可能性があることを告げられる。しかし、保険証を持たない場合の手術費は恐ろしく高く。彼らの生活レベルをはるかに超えた額を請求される。
分割払いなどをナジフは提案するものの、病院側は断り手術は行われない。
二人は諦めて、家へ帰るしかないのだった。

ボスニア戦争をスリル、ブラックユーモアで寓話化した監督の代表作『ノー・マンズ・ランド』を期待して劇場へ向かうと、落胆するほど本作は非ドラマ的だ。『ノー・マンズ・ランド』は演劇的だと評されるほどセリフの魅力に溢れた映画だったが、『鉄くず拾い』にはほとんどセリフらしきものがない。無声状態が数分続くことが、この映画では数回あり、私の隣の観客はいびきを嗅いて深い眠りについていた。事実「退屈」という感想も、そのとおりである。

だが、本作の手法としてセリフを極端に廃したことは成功だったと私は考える。それは、この話はロマの差別を訴える映画ではないということだ。監督は「彼らが、ロマだということは考えなかった。仮に彼らが金髪で、青い目をしていても、同じ悲劇が起きただろう」と語っている。
この映画の主題は、国家のシステムから排除された人間を描くことなのだ。

手術を受けられないことに関して医師たちは、口を揃えて「私は一雇用者だから、上の判断に従うほかない」、「無理なものは無理」としか説明しない。セリフを極小化させることによって、人間を救うための保険制度が、逆にシステム的に人を排除し、見殺しにする機能として残酷に作動していることを映し出している。

セナダは、最終的に知り合いの保険証を借りて手術を受ける。一般的な観客は、なにかドラマティックな奇跡が起きて、親切な人が現れて手術を受けるのだろうと予想するが、それは完全に裏切られるのだ。自分ではない誰かが、世界をよくしてくれているのだろうなんて甘い考えを持って見る観客に、ダノビッチ監督が「お前らが何もしないから、こうなってんだよ!」と叱咤するようだった。

映画という手法によって身構える観客の思考を、幾重にも裏切り続けることによって、提示する現実へ目を開かせようとしているのだ。ジョン・ケージが「433秒」で、音のない楽曲を作り、世界のすべての音を音楽へと開かれるものとした手法を私は重ねてしまう。

「鉄くず拾い」で描かれている現実は言うまでもなく、ボスニアに限ったことではない。日本でも生活保護費問題は昨年大きな話題となった。不安定な社会にも関わらず、セーフティネットが未整備な日本では誰もが主人公ナジフと同じ状況に陥る可能性がある。
このような映画は、生存権や人権などの小難しいテーマへ絡められ、小難しいからという理由で手を伸ばし辛い位置へと置かれがちだ。(実際に映画の広告はその方向で打ち出されている)

そうではなく、もっと単純に、金がないからという理由で人が殺される時代を誰もが考える材料として広く見られるものとしてあってくれればと思う次第だ。