アドセンス2

2014年1月9日木曜日

【評/感想】『永遠の0』、存在すら消えてほしいプロパガンダ映画 



百田尚樹の同名小説を、『ALWAYS 三丁目の夕日』『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の山崎貴監督が実写化。祖母の死を機に祖父が本当の祖父ではないことを知り、特攻で死んだ実祖父・宮部久蔵(岡田准一)の人生を三浦春馬と吹石一恵が戦友に聞いて回る。聞いて回ると多くの人は宮部を「臆病者だった」と語る。しかし、さらに調査を進めるうちに、高い戦闘能力を持ち、家族を強く思う故に何よりも生きて帰ることを考えていたという本当の姿があらわれてくるのだった...

もしあなたが、「ALWAYS」を好きならば間違いなく本作を好きになるだろう。『ALWAYS 三丁目の夕日 戦争篇』と言える程の類似点をもっているからだ。そしてそれは『ALWAYS』と同様の映画的欠点を持ち、駄作であることを示す何よりの根拠だ。

『ALWAYS』で季節毎に分割し、個別のドラマが描いた様に『永遠の0』も語り手ごとに小ストーリーへ分割される。第一の共通点は、そのように分割されたストーリーがどれもあまりに似方より、そして記号的な感動を誘うためだけのものにすぎない点だ。死にたくない兵士という目新しさのかけらも無いキャラクターが、どれだけ優れ、どれだけ家族を思っているかのストーリーを何度も何度も見せられる。そして、作り手が「ここで感動しろよ!」と観客に命令する様に、毎回同じエモーショナルなBGMが流されるのだ。日本映画のよくある悪癖だ。しかし、それだけ焚き付けられようと感動の出来る代物ではない。その理由は端的で、起承転結の起と結しか描かれていないからだ。

それはこのような形だ。
起:誰かが宮部と出会うが、命を惜しむ宮部に反感を抱く
結:宮部の活躍で誤解が解ける
永遠の0はこの連続だけで出来ているといって過言ではない。故に結でどのようにドラマ的な盛り上がりを描こうとも、それはただの記号なのだ。このような、簡易な感動プロセスは、勃起させ射精に導くだけの精神的ポルノである。

『ALWAYS』の昭和で描かれたは昭和は、汚れも無く、一種のユートピアのように描かれ、あまりにも実情と異なる事、過剰の理想化により批判された。永遠の0はこの点もより大きく引き継がれている。本作に戦争のダーティな部分はおろか、人間のおろかな部分すら存在しない。全ての人間は善良で、物わかりが良い。宮部が非常な近代的な価値観を持った人間であることを百歩譲ろうとも、周りの全ての人間が彼の言動に理解を示すという状況は明らかに限度を超えた歴史創作だろう。その修正の結果、たとえばこの映画は「天皇」という言葉が一度も登場しない。そのために、形を繕う為だけに現れる宮部への批判の言葉の数々は宙を浮かぶ具体性を欠いたものと化している。

このことに関して、「エンターテイメントに徹する為に、政治色を極小化した」という反論が予想される。それには二つの回答を与えよう。一つは映画の構造だ。この映画は、宮部久蔵の人生を掘り返すことにより日本の戦争を総括しようと作られている。段々と戦争のリアルへ近づくことが目的なのだ。だが、この映画の多くは欺瞞で満たされている。つまり、「戦争のリアル」に至る物語を「偽りの戦争」で描いている作品なのだ。作り手は意識しながら、観客を騙すこの手段は悪質極まりない。はっきり言ってしまえば、ある歴史を観客に承認させる為のプロパガンダのような映画なのである。

二つ目の回答は、映画の中の「合コンシーン」にある。三浦春馬が友人に誘われて行ったコンパで、特攻を研究している事を皆に言う(空気読めなさすぎだ)。するとすかさず「特攻は洗脳された狂信者がやったものだ」、「自爆テロと同じだ」とチャラついた友人らから言葉が返ってきて議論が始まる(友人らも空気を読めなさすぎだ)。
日本人の戦争に対する思い込みを描いたシーンと言っていいだろう。このシーンの存在が、より「戦争のリアル」に迫るというテーマ性を補強する。
そして、なによりこのシーンは戦争をどう捉えるか、それ自体が政治的であることを明確に示している。たとえば、そこにいた茶髪の女子に議論の末、「えー右翼なのー?笑」なんて言われてしまっている様に。
また、三浦春馬に対立する意見を持つものは馬鹿っぽく描くのは悪意に溢れている。

どのような方法でも戦争映画から政治性を完全に漂白することは不可能だし、仮に可能だとしても、政治性を排するという行為が極度に政治的なのだ。

この映画が日本へ思索を巡らせようとする意図だけは、私に対しても成功したかもしれない。このような物語も退屈で、欺瞞と、きな臭さに満ちた悪質な作品が大ヒットし、絶賛されているこの日本の状況を私は憂いてしまう。現代の日本は、戦後最も文化的に貧しい時代かもしれない。

2014年1月7日火曜日

『ALWAYS 三丁目の夕日』まがい物の物語あるいは精神的ポルノ

確かに60年代の町並みの再現はよく出来ていたが、そのまがい物の世界にふさわしいような、まがい物のストーリーだ。
春夏秋冬を描くオムニバス的形式をとっているため、物語同士の繋がりがテレビドラマ的なのだが(これは原作が4コマ漫画だからしかたがないにせよ)そのドラマ内部でも物語を積み重ねようという努力を一切行っていない。
始めに「古き良き日本」っぽい描写をたて、それにふさわしい始点を与えているのだが、始点と終点の間は虚無が広がっている。
それをストレートなドラマと言うのかもしれないが、少なくとも私には記号的な感動にしか映らなかった。

同時代を描いた映画として私は真っ先に小津映画を思い出す。子どもは純真でもないし、親ですら家族を第一に思ってなどいなかった。しかし、その中で繰り広げられる心の機敏さを写したフィルムが大衆に受け入れられる土壌が存在した。

この映画を見て私もノスタルジーを馳せてしまった、しかしそれは良い映画が受け入れられる土壌があった日本の文化に対してだ。オールウェイズのような精神的ポルノに対してではない。