アドセンス2

2013年10月16日水曜日

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカのロジャー・イーバートによる解説



ロジャー・イーバートによる解説を和訳しました。

原文
http://www.rogerebert.com/reviews/once-upon-a-time-in-america-1984

一度殺された映画が、蘇りビデオとなった。
アメリカ公開時上映時間が90分あまりに切り刻まれ為に理解不能なムードもセンスもかけらも感じられなかったたセルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は、227分に延長され、欲望と暴力の偉大な叙事詩へと生まれ変わった。
アメリカ以外の世界ではオリジナルのフィルムで公開され、私もカンヌ映画祭で鑑賞する事が出来た。だがアメリカでは悲劇が起きてしまったのだ。

私はカンヌで見た後以下の文章を記した。
「この映画は長すぎるか?答えはイエスであり、ノーでもある。すべてはアヘンが見させた悪夢かもしれないという構造や、多くのキャラクターが織りなす50年にも及ぶ人間ドラマといったレオーネの複雑な演出を理解するために集中できる時間としては長すぎる。しかし、この一大叙事詩は我々を退屈にさせないという点では、決して長くない。」

この映画はニューヨーク生まれの4人のマフィアの50年の人生を描く。彼らは少年時代から無慈悲な犯罪を繰り返すが、固い友情で結ばれている。あるときその中の一人が彼らの絆を壊す、あるいは壊したと思い込み、年老いるまで罪悪感に苛まれ続ける。しかし後に、彼は自分は裏切り者ではなく、仲間に裏切られたという事実を発見する。レオーネのオリジナルバージョンは、このストーリーにフラッシュバック、記憶、夢を取り入れ複雑化させている。
映画は二つのおぞましい暴力シーンから始まる。ロバートデニーロがアヘン窟に逃げ込む、するとバックグラウンドに延々と電話の呼び鈴が流れ始め、警察が裏切りを告発する。これらのシーンは映画の空気感を醸成する。
そしてフィルムは、彼ら4人が仲が良かった時代へと巻き戻される。

これらの素晴らしいシーンの数々はいまではDVDでみられるようになったものの、劇場公開時はほとんどがカットされてしまっていた。印象的な長い呼び鈴も、その時は一度しか鳴らなかった。詩的なカットの移り変わりを記したフィルムは切り刻まれ、明確な時代順に並び替えられた。しかし、その作業は完全に失敗し、観客のまえには理解不可能な映像が提供されたのだった。簡単な構成をめざした編集が理解不能な作品を作ってしまったという大変な皮肉があったのだ。

さらに短縮版にはいくつかの重大な欠陥がある。禁酒法が施行されるより以前にもぐり酒場のシーンが登場する。さらに、映画を観る限りだと、試行の翌日には撤廃されたかのように見えるが実際には6年間の期間がある。
また、二人のマフィアが娼婦たちの前で銀行強盗の計画を立てているように見えるシーンがあるが、完全版では当然彼女たちに席を外させている。労働組合のリーダーが買収されるシーンの整合性も意味が分からなくなっているし、デニーロのガールフレンドを殺害した犯人も誰だかわからない。
そして最も馬鹿な間違いが映画のラストにある。ロバートデニーロは一度も来た事の無い建物から、隠し扉を使って外にでるのだ。いったいどうやって彼はそれを知ったというのだ?

その他短縮版ではいくつもの映画史に残るような美しいシーンが消されてしまっていた。突然フリスビーがなげられることによって映像がフラッシュフォワードされるシーンや、遠い日々を思い返しているシーンでどこからともなくビートルズのイエスタデイが流れてくるシーンどれもすばらしい。

2013年10月15日火曜日

第九地区はまぐれだったのか!? 『エリジウム』に超ガッカリ


遅ればせながらエリジウムを観てきました。(10/14@バウスシアター)

SFには現実問題を寓話化できる機能を備えている。ニール・ブロムカンプ監督は前作『第九地区』でアパルトヘイト問題を、地球人による宇宙人への差別に落としこみ、社会に対する批評性を持ちながら、娯楽としても文句なしの名作を作り上げた。

前作の成功から5倍もの予算を獲得し、ブロックバスター作品として満を持して登場したのが『エリジウム』だ!

板野サーカス(マクロスシリーズのようなミサイルの弾道)を描くようなオタク気味の監督にビッグバジェットを得たのならすごいものが観られるはずだ!予告編では前作で見せたような荒廃都市、その対極に置かれるガンダムのコロニーのような宇宙住居エリジウム。クオリティ、規模が第九地区を大きく上回る本作に期待を抱かずにはいられなかった。個人的にはパシフィックリムを超えるのではないかなんて思ってもいた。

感想を端的に言おう、
超駄作!!!

2145年地球は荒廃し、富裕層(エリート)は宇宙コロニーに移住していた。工場での事故で致死量の放射線を浴びて、余命5日と宣告されたマックス(マットデイモン)はコロニーにある医療装置(どんな怪我でも、病気でも治る!すげー!)を求めてエリジウムに乗り込むために奮闘する。

アメリカの医療格差問題、経済的な南北問題、オキュパイウォールストリートなどを意識し、そのような不公平さを寓話化しようという試みは一定の成功を収めている。しかし、いまさら富の偏りを訴えられても「それで?」という感想を抱いてしまう。あまりにも自明すぎるのだ。
そして第九地区ではアパルトヘイトを受けた黒人が宇宙人を差別するという構造が面白さがあったのだが、そのような凝った設定もない。
はっきり言って、これくらいの社会問題の提起なら中学生がノートに書く漫画だって可能だ。

そして残念な事に前作でのもう一つの核だった、娯楽性がこの陳腐なテーマを語る為に大幅に損なわれてしまっている。
この映画の肝となるガジェットの一つがパワードスーツだ。攻殻機動隊のような神経接続をし、半電脳化のような仕様なのだ。とても魅力的なこのパワードスーツがストーリー上の大きな障害になっている。

マックスは放射線を浴びたことにより、生体機能が大幅に弱体化したためこのスーツを武器に闘うのだが、のちに敵に捉えられ映画を盛り上げるためのピンチを演出しなければなる宿命を持つ。故に強すぎても、弱すぎてもいけない。
なのでかっこいいメカを着込んでいてもケンカパンチ&ケンカキックで一般兵と延々闘う。撮影も単調なので、とにかく退屈で面白みがない。前作の、半宇宙人となった主人公が宇宙人専用武器を一人つかってチート級の強さを見せたような爽快感はかけらも残っていない。

脚本の為に意図的に設定を陳腐化させているのは、このパワードスーツだけではない。至るシーンに現れているし、大落ちもどうようのガッカリ感が存在する。
それについてはいつか追記しようと思う。

そうは言ってもエリジウムの全体のデザインはすばらしい。
しかしこれも監督よりは、ターンエーガンダムやブレードランナーをデザインした天才プロダクトデザイナーのシドミードに負うところが大きい。

娯楽性というか、鑑賞に耐えられるレベルの作品でもないのにコンセプトやメッセージを叫ばれたってそれはウザイだけだ。単純に楽しめる映画を作れる監督だと僕は信じているので、次回はエンターテインメント第一に作品を作ってほしい。