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2013年10月4日金曜日

J.Sミル 自由論 第一章「はじめに」 レジュメ

ゼミのレジュメ


J.S.ミルと19世紀のヨーロッパ 
1802年ロンドンで産まれる。自由論は1859年に出版された。
フランス革命とナポレオンの登場の最中に19世紀は始まり、西ヨーロッパには自由主義とナショナリズムが広がる。この頃のイギリスは圧倒的な工業力を背景に、世界中に植民地を敷く。パクスブリタニカの中心、東インド会社にミルは勤めていた。
1820-40年代にかけ議会背民主主義が普及、同時に「人民の意見=真理」とみなし、少数派を弾圧する危険がおこり、民主化がもたらす弊害が認識されるようになった。
また社会主義運動も盛んになり、資本主義の限界も指摘されはじめた。1848年にマルクスが共産党宣言を発表する。女性権利運動も活発化、ミルもこれに参加。
(参考:解説、山川詳説世界史)

「本書で展開される議論はすべて重要な基本原理に帰着する。それは、人間の多様性がもっとも豊かに発展していく事こそ、絶対に大切であるという原理である」 ヴィルヘルム=フンボルト 『政府の権原と義務』(1851年)
プロイセンの政治家であり、ベルリン大学の創始者。

「本書のテーマは、--意思の自由ではなく、市民的な自由、社会的な自由についてである。逆に言えば、個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界を論じたい」 p12
明確に要旨を記した一文であることと同時に、「意志の自由」という文言から功利主義の批判者カントへの応答であることが伺える。

人類の進歩と自由

支配者と被支配者が対立していた時代の自由 
支配される側と政府が対立していた時代「自由とは、政治的支配者の専制から身を守る事を意味した。支配者は、支配される民衆にかならず敵対するものと考えられた」p13

権力は外的から身を守る為に不可欠ではあったが、同時にそれは国内の民衆に向けられるものでもあった。

「したがって、国を愛する人々が求めたのは、支配者が社会に対して行使できる権力に制限を設けることであった」p14

権力制限の二つの方法
1.     負担の免除を認めさせる事。人々はこれを権利と称し、支配者に侵犯された場合には、義務違反として反抗も正当化される。
2.     憲法に基づくチェック。支配権力が重要な行動をするときには、条件として社会の同意が必要とされる。

被支配者が支配者を選択する時代の自由
権力を制限するのは、支配者と国民の利害が常に対立していた時代の方策であり、支配者を被支配者が選択する時代において必要なのは、支配者と国民が一体となる事。

支配者が国民に説明責任を負い、国民によって解任されるものとなったとき、「権力は、使いやすい形となった国民自身の権力にほかならない」p16

多数派の専制の時代
地上にアメリカの様な民主的な共和国があらわれると、「『自治』とか、『人民に対する人民の権力』といった言葉は、ものごとの実相をあらわすものではないことがわかった。権力を行使する人民は、権力を行使される人民とかならずしも同一ではない。また、いわゆる自治とは、自分が自分を統治する事ではなく、自分以外の全体によって統治されることなのだ」 p18

「人民の意思というのは、じっさいには人民の最も多数の部分の意思、あるいは、もっともアクティブな部分の意志を意味する。多数派とは、自分たちを多数派として認めさせる事に成功したひとびとである。それゆえに、人民は人民の一部分を抑圧したいと欲するかもしれないので、それにたいする警戒が他のあらゆる権力濫用への警戒と同様に、やはり必要なのである。したがって、社会内の最強のグループに説明責任をはたす様になっても、個人に対する政府の権力を制限する事は、その重要性をすこしも失わない」

「社会それ自体が専制的になっているとき、その抑圧の手段は、政府の役人が行う活動に限られるものではない。-- 社会は、社会自身がくだした命令を自ら執行している。-- それが、社会が干渉すべきでないものごとについての命令であったりすれば、社会による抑圧はたいていの政治的な圧迫のように極端な刑罰をちらつかせたりはしないが、日常生活の細部により深く浸透し、人間の魂そのものを奴隷化し、そこから逃れる手だてをほとんどなくしてしまう」 p19

「役人の専制から身を守るだけでは十分ではない。多数派の思想や感情に夜抑圧に対しても防御が必要である。すなわち、多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なる人々に、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押し付けてくるような社会の傾向に対して防御が必要である。」p20

個人の独立と社会による統制の調整にあたっての問題

集団の意見が個人の独立にある程度干渉できるとしても、そこには限界がある。しかし、限界については未解決のままにのこされている。その規制がどのようなものであるべきかは、人間生活にとって大問題である。

「この問題は、異なる時代、国ごとに、異なった答えが提出され、その答えは、異なる時代、国においては奇異なものとなる。しかし、どの時代、国においても人は自分たちが決めた事に疑いを抱かず、人類が一貫して同意してきたものの様に考える。すでに出来上がった規則を当然で、自明なものと見る。こうした幻想がどこにでも普遍的に存在するのは、習慣に魔術的な力があることを示す」p21


人々は道理よりも感情を大事にする。その感情、すなわち好き嫌いを左右する最も一般的な因子は自己利益である。「支配的階級が存在する国では、その国の道徳の大部分は支配階級特有の優越感からうまれる」p23

「社会全体、あるいはその有力な部分に広がった好き嫌いの感情こそ、社会が全体として守るべき規則、そして守らねば法律や世論によって罰せられるという規則を定めた事実上の主役である」 p23

これまでの思想家は多数者の好き嫌いが社会的強制の根拠になることを問題視せず、個別の好き嫌いのみを変えようとした。
信仰問題は事情が異なり、信教の自由は個人の権利の問題であるという原理の問題として主張された。寛容の義務は表面的には認められたものの、多数者の感情に少数者は従わざるをえないままとなり、実際には実現しなかった。
P25

イギリスでの政治状況
他のヨーロッパとくらべて、世論による束縛は強いが、法による束縛は弱い。個人の独立が尊重されているからというよりは、政府と民衆の利害は対立するものだと考えられてきた習慣による。
法律により個人の管理を行う事に反感を覚えるが、それは確たる原則によるものではなく、政府に好感を抱いているかどうかによる。「原理、原則が無いまま選択されたものは、どちらの側であれ同じ様にしばしば間違いを犯す。」 p27-29

他者危害原則、あるいは自由原理

本書の目的は、極めてシンプルな原理を明示する事にある。社会が個人に干渉する場合、その手段が法律による刑罰という物理的な力であれ、世論という心理的な圧迫であれ、とにかく強制と統制の形で関わる時に、そのかかわり方の当否を絶対的に左右するひとつの原理があることを示したい。

その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、他の人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自営の為である場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、他の人々に危害が及ぶのを防ぐ為である場合に限られる。 P29

·       他者の生命や、財産を侵害しないかぎりにおいて自由に行動する権利をもつという原理は17世紀から唱えられ目新しいものではないが、ミルの発想で斬新なのは、それを民主主義の制約原理として捉え直し、新たな意味を与えた点である(解説)

パターナリズムは説得の根拠にはなっても、干渉を正当化する十分な理由にはならない。干渉を正当化するためには、相手の行為をやめさせなければ、ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要である。

「本人のみに関わる部分については、当然ながら、本人の自主性が絶対的である。自分自身に対して、すなわち自分の身体と自分の精神に対しては、個人が最高の主権者なのである。」 p30

こどもや野蛮人にはこの原則は適用されず、外部からの危害にたいしても、本人自身の行動に対しても保護が必要なはずだ(恒久の利益の視点)p31

「強制が認められるのは、唯一、ほかのヒトの安全を守るのが目的である」p32


効用

「効用こそがあらゆる倫理的な問題の最終的な基準なのである。ただし、それは成長し続ける人間の恒久の利益に基づいた、最も広い意味でのこうようでなければならない。こうした恒久の利益という視点に立てば、個人の自発性を外部から統制する事も正当とされると言いたい。個人の行動が他の人々の利害に関係する時、その時だけは外部からの統制にしたがわなければならない」  p32

他者を害する行為が、法律によって罰せられるように、人命救助など、他者を益する行為として肯定されるものは、強制しても正当とされる。こうした行為を実行しなかったとしたら、社会に対する責任を問われても正当だ。 とはいえ、社会が個人を力ずくで統制するよりも、個人の裁量に任せた方が、より全体としてよいこともありうるので、強制的に責任を負わせる事に関しては慎重になる必要がある。p33-34


人間の自由の固有な領域

社会が個人に対して、せいぜいのところ間接的にしか関与できない活動の領域がある。個人の私生活と私的な行為の部分である。それはじぶんにしかえいきょうをあたえず、また、仮に他者にも影響を与える場合には、相手もきちんとした情報に基づいて自由かつ自発的に同意し、関与している分野である。したがって、自分にしか影響を与えない部分こそが、人減の自由の固有の領域なのである。

1.     もっとも広い意味での良心の自由。あらゆる問題について、意見と感想の絶対的な自由
2.     自分の性格にあった人生を設計する(行為の)自由。人から間違っているといわれても、人に迷惑をかけない限り、人から邪魔されず行動する自由。
3.     団結の自由。 P35-36

「こうした自由が大体において尊重される社会でなければ、そこは、どんな政治体制をとっていても、決して自由な社会ではない。また、こうした自由が絶対的に無条件で存在する社会でなければ、そこは決して完全に自由な社会ではない」p36

現代においては、宗教が個人に道徳的な抑圧を行なっている。p38

「世論の力と法律の力をあわせて、個人に対する社会の支配力をどこまでも拡大しようとする傾向は、今世界全体に広がっている。そして変化は全て、社会の力を強め、個人の力を弱めて行くものであるから、社会による不当な干渉は、決して自然に消滅して行く害悪ではなく、コレから益々恐ろしいものに成長して行く」p39


以上