公開から一週間が経つ11/1に鑑賞してきたが、全席埋まっているといて、大変な人気を伺いしれた。
アニメファンの為の作品だけあって、当然前作の予習と復習は必須なつくりになっている。完全に一見さんお断り状態なのでブームに乗っかりたいというだけでいくのは意味不明な2時間を過ごすことになるので注意が必要である。
さて、本題の批評に移りたい。結論から言えば駄作である。クリーニングにだし、丁寧にアイロンを掛けた風呂敷で下痢便を拭くような映画だ。
理由はとても簡単である。この作品にはドラマが完全に欠落しているのだ。
デレビ版まどマギは先鋭的な映像、見事な演出、そしてなにより「少女まどかが承認されている日常を賭してでも、世界を救おう」という選択のドラマ性が評価された。この物語の構造は、アニメ史的に観てもセカイ系の超克を意味するというエポックメイキングな作品だった。
対して劇場版まどマギは誰も選択を行わない。ただの人形遊びでしかない。
本作の主人公はまどかから、ほむらへとシフトしている。
以下ほむらに端折った形であらすじを観てみよう。
ほむらが、見滝原中学へと転校してくる所から映画は始まる。それはまるでテレビ版第一話のようなのだが、彼女自身はテレビ版全ての記憶を引き継いでいる。そのため円環の理となったまどか、魔女と化し殺されたさやか達が生存していることに疑問を抱き世界の秘密を解き明かそうとする。
彼女は見滝原の外へ出てみようとするのだが、どのようにしても出られない。本物だと思っていた世界は、見滝原を完全に再現した魔女の結界だということをほむらは推測する。(この辺はビューティフルドリーマーっぽい)
推測から他の魔法少女の誰かが実際は魔女だという仮説を建て戦いを挑む。しかしその末に魔女の正体は自分自身である事を悟る。ほむらの実態はインキュベーターに捉えられ、魂を幽閉されたソウルジェムの中で円環の理であるまどかの能力を観察することによって感情相転移エンジンの設計を画策していたのだ。ほむらは憤慨し、自ら魔女となり魔法少女たちに殲滅されることによってその謀略を失敗させようとする。
魔法少女達の活躍によって、インキュベータの企ては失敗に終わる。実態のいる世界に戻り、ほむらのソウルジェムを浄化するためにアルティメットまどかが彼女に触れようとすると、ほむらはまどかの円環の理の一部を奪い取り、悪魔となるのだった。以上があらすじだ。なんだかんだ言ってあらすじだけを観るととても面白そうに見える。というか、今私は書いていて「こんなに面白そうな映画だったか?」と自問してしまった。
しかし、実際にこの映画はこのような素晴らしい設定達を全く活かせていない。なぜならほむらが闘うということは、彼女にとっても、我々にとっても自明だからだ。
まどかの為にただただ戦い続けるというのは前作で大変な感動を産んだ彼女のいわゆる萌えポイントであり、キャラクターの設定としては確かに有用だ。しかし、作劇という観点において本作ではそれがそのまま悪い部分になっている。
何かのアクシデントが起きたならば彼女はすぐさま闘う。戦いへの葛藤が一切無いからだ。なのでドラマが産まれる余地がないのだ。それにより、物語としての盛り上げもできないし、どのような心情で闘っているかの感情移入が一切できないのだ。つまり、いくら素晴らしいアクションシーンが出てきても我々はそのアクションに燃えることができない。
そして次第にそれは闘わなければいけないという風に見えず、ただ闘わせるという役割のためだけに彼女に困難を背負わせているような作劇になり全体を陳腐化している。(不条理を極めようとしていたアニメが、予定調和に陥っている。なんという悲劇)
葛藤が一切無く、ただ一人で突っ走りドラマが産まれない本作では当然我々は萌えることが出来ない。ほむらが「愛よ」なんて言っても、なんの過程も踏まれていない故にそのメッセージは恐ろしく薄いのだ。最高の百合アニメでもあったのだが、劇場版は「汗臭いおっさんが無口な人形にペニスをすりつけている」ようなグロテスクな愛だ。
総括すれば、本作はドラマの欠如により、萌えも燃えもなくなった欠陥作品だ。
最後に私なりの解釈を付け加えたい。
少女を闘いを観測しエネルギーに変換するインキュベータというのは、少女の苦難に興奮する私たち自身を指している。度々画面に現れるQBの目はすなわち私たち自身の眼球だ。しかしインキュベータは映画のラスト、悪魔の使いへと身を落とし扱き使われることとなってしまう。それはマスターベーションにより、キャラクター達にたいして優越感を抱いていた私たちは実際は上手い様に彼女達の手玉にとられ、まんまと劇場へ足をはこび金を貢いでくた私たちの姿なのだ。
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