アドセンス2

2014年4月18日金曜日

【評/感想】レズによるレズ差別、強烈なアンチゲイを訴える『アデル、ブルーは熱い色』


『アデル、ブルーは熱い色』に関する全ての批評は間違っている。この作品は、「アンチゲイ」作品であり、自由な同性愛を描いた作品ではない。この作品は、貪欲な性欲を描いた作品であり、純情な愛の物語ではない。

しかし、全ての間違った批評はその存在がアデルの言わんとするメッセージを体現しているという点で価値があると言っていいかもしれない。
同性愛を描く作品は、人間の愛に性別の垣根など存在しないと言うだろう事を一方的なイメージで構えてしまっているのだ。同性愛者は、リベラルで寛容な人間だと勝手に思ってしまっているのだ。批評家たちは、自らの都合のいい同性愛者像でこの映画を歪めてしまっている。

『アデル、ブルーは熱い色』が訴えるのは、その虚像に対してである。本来同性愛者とは普通の人がたまたま同性を性的な対象にした存在にすぎなかった。それにも関わらずいつしか、アーティスティックだったり、リベラルだったり、インテリだったりといったイメージが付随してしまっている可笑しな現状を告発する映画なのだ。

差別の反対を訴えるゲイコミュニティの中での差別という皮肉で、もっとも残酷な現実を描いた映画、それが『アデル、ブルーは熱い色』だ。


昨年の第66回カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞したアブデラティフ・ケシシュ監督による『アデル、ブルーは熱い色』。
フランスマンガ・バンドデシネの同名作品が原作だが、ただ一点変更されたのが主人公の名前だ。バンドデシネではクレモンティーヌという名前が映画ではアデルと変わっている。そして、それは他でもなく主演女優アデル・エグザルコプロス から取られたわけである。

それが意味するのは、女優の身体性を極限まで用いるということだ。話題の濃厚なセックスシーンでは女性器やアナルが完全に見えているほどの体当たり具合だ。(女性器は作り物だそうだが)

しかしより重要なのは食事だ。直接言及されないまでも、彼女にとって食事とは性行為の代償行為だ。アデルがある相手にキスをしてセックスを求めるが、相手に拒絶されてしまう。そんな時、彼女は鼻水をダラダラと垂らしながらスニッカーズを貪るのだ。

アデルは通常映画ではありえないくらい常に髪の毛がボサボサだったり、とても美しいとは言い難い寝顔をアップで何度も撮られたりと肉感的な身体性を強調されている。

しかし、彼女と運命的な出会いを果たすブルーの髪のエマ(レア・セドゥ―)にはまるでそういった現実感が欠如している。そして、それこそがアデルがエマに惚れた理由だったはずだ。事実、人混みの中あるくエマはありもしないのにスポットライトが当たっているかのような息を呑む美しさが備わっていた。

エマは才能のある美大生だ。彼女はアデルをモデルに何枚も絵を書き、そして後にその絵を認められる事となる。

だが、この映画においてエマの成功は喜ばしいことではない。エマの書くアデルの絵は明らかに、映画でアデルが見せる生々しいまでの身体性が欠如している。ざっくりと言い切ってしまうならば、レズビアン的な女性像にエマは描くのだ。そう、絵を書くという行為は作品においてアデルを画一的なゲイのイメージに追いやることを象徴する行為なのだ。

そこから、映画の中での時間は数年経つ。アデルは変わらないまま、エマの髪の色は金髪にもどり、彼女の非現実さは完全に褪せ、いかにもなレズビアン女性という風貌になってしまった。
そして、二人の関係も燃えるような恋から遠退き、マンネリ化した関係となっている。アデルはエマの身体を求めるが、「今日は生理だから」と断ることもしばしばだ。

彼女らの不和の原因は明らかだ。エマによるアデルのレズビアン化の要求だ。レズビアン、同性愛のイメージにそうような―つまりクリエイティブなタイプに―人物になるよう執拗にアデルに要求する。そして、時として芸術のリテラシーのないアデルを見下すかのようにあしらってしまうのだ。

そして、その遠因にはエマが加わっている同性愛者コミュニティの存在が大きい。その参加者は一様にインテリ風で、芸術家風を吹かしている。それは、さも「同性愛者たるものはクリエイティブでなければならない」と言うかのように。

本来セクシャリティとは全く無縁の付属イメージによってアデルはコミュニティから排除されてしまうのだ。

アメリカのジャーナリスト、マーク・シンプソンの『アンチゲイ』という作品がある。その本では同性愛とは無関係なはずの、ライフスタイルやファッションがさもゲイコミュニティの参加条件のようになり、そのイメージにそぐわない人物が排除されている現実を暴いている。

『アデル、ブルーは熱い色』はマーク・シンプソンが発見した悲しい差別を訴える映画なのだ。


無意識的な差別意識が愛しあう二人の心を引き離す、これ以上の悲劇を私は見たことがない。


2014年4月16日水曜日

【評/感想】高校生以外はみんなアホ、恋愛ディストピア『L・DK/ラブ同居』は剛力映画最高傑作



L・DK/ラブ同居』タイトルだけでも脳みそがとろけてしまいそうなこの映画を、わざわざ前売り券を購入し、公開初日に見に行ったのは他でもない2014年現在最もキテいるアイドル女優・剛力彩芽をスクリーンで見に行くためだ。(余談だが、AYAMENと名乗り剛力映画振興事業をやっています)

今女子中高生に一番人気の俳優・山崎賢人がツンデレ王子こと久我山柊聖を演じることもあり、休日の映画館は女子校状態!
制服女子、ジャージ女子たちが埋め尽くす桃源郷だ。しかし男一人の観客に対する彼女らの視線は中々辛辣で、性犯罪者を見るかのような目に私には思えてしまった。

だが、この映画の監督も私と同類のようだ。最初のカットから凄まじい犯罪臭。女子高生の足を盗撮風に舐めるように捉える。テレビ版『けいおん』も盗撮アニメと揶揄されたが、こちらの方はより生々しい。FC2動画にアップされていても違和感を感じないような性的なものだった。

ストーリーは40年前からあるような、学園イチのイケメンとの同居もの。古くは『イタズラなkiss』、『ママレードボーイ』などの人気マンガがあり、最近でも『ホタルノヒカリ』などと形を変え生き残り続けている鉄板ジャンルだ。

過去の名作に立ち向かうべくこの作品がアイデンティとしたことは、ただただ女子高生に受けることをやろうということでしょう。つまり、この作品は十代女子のユートピアを目指しているのです。

しかし、その実情はというと十代女子以外にとってはディストピア以外の何物でもない。たとえるなら、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のラムの世界だ。

まず、この作品には大人は存在しないに等しい。剛力彩芽演じる西森葵の両親も、久我山柊聖の両親も顔すら出てこない。不可避的に出さなければならない教師は藤井隆が演じており、映画の誰よりも軽んじられる存在になっている。また、白石美帆演じる寮母ももう一人の大人として出演しているが、常に彼女らにとって良きことをしてくれる都合のいい人間だ。

今の女子高生の身も蓋もないリアルに圧倒されるのはまだ早い。青春映画にも関わらず、この映画からは部活動すら排除されている。
学校とは、男と出会い、恋愛に発展する場所以外の何物でもないのである。

この映画はそれだけ突き抜けているので、キャラクターたちもかなりヤバい。どのキャラクターたちも恋愛のことしか考えない。深刻な悩みも出てくるが、その原因も勿論恋愛。恋愛以外の要素は徹頭徹尾完全にゼロだ。

日常描写は基本的にはギャグ路線だ。完全に滑っている寒いギャグもあるものの、この映画らしさを際立てる久我山柊聖の「イケメンすぎる」ギャグのキレは素晴らしい。

初対面の女にいきなり半裸で接近したり、脈絡なくシーンが変わると剛力彩芽におんぶをさせていたり、河原の坂から剛力を突然蹴落としたり、サイコパス気味なイケメン具合が炸裂している。

本当に嫌味ではなく、このコメディ具合は素晴らしかった。

ただ、途中久我山柊聖の過去にまつわる話になると話は別だ。水野桜月(石橋杏奈)という元カノと過去に一悶着があって、彼女との約束のため、思いが重なりかけた剛力と付き合うことを柊聖はためらってしまう。
ドラマの雰囲気が一挙シリアスになったはいいが、彼の過去自体に全く興味が持てないため物語の推進力が落ちてしまった印象を受けた。

しかし、最後の盛り上げ方はさすがLDKといった力技を見せてくれた。剛力と柊聖は七夕に花火大会に行く約束をしていたが、柊聖は逃亡。2枚のチケットが無駄にならない為にも、友人の渋谷萌(岡本玲)は近所に住んでいるイケメン大学生・三条さんを誘うようにけしかける。

当日、剛力は三条さんと花火大会へ。

しかし!渋谷萌のお節介さは、ここから本領発揮する。消息不明になっていた、柊聖を見つけ出し、「剛力のところに行きなさい!」とけしかけるのだった。そして、ハッピーエンドへ

いろいろ言いたくなることはあるが、恋愛脳っぽい話の運び方で逆に良かったとすら今は思ってしまう。

繰り返すが、本当にこの映画は面白い。すごく面白いという訳ではないがクセになりそうなセンスが散りばめられている。
もし、嘘だと思うのならぜひ劇場へ行ってほしい。きっとあなたも、剛力彩芽の魅力に酔いしれてしまうことでしょう。



2014年4月13日日曜日

【評/感想】『ジョジョ3部アニメ』はゲロ以下! タイマンの物語、乱闘の演出



『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』のアニメが始まった。熱心なファンという訳ではないが、マンガはひと通り読んだ。
しかしこと1993年及び2000年に作られた3OVA『ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE』に関しては篤いファンの一人だ。『パプリカ』で知られる今敏が演出を手掛けたり、その他『宇宙ショーへようこそ』のますなりこうじ、『マクロスF』監督の菊池康仁ら、日本アニメのトップ演出家たちが手がけている。

シリーズ全体を通して比較することはまだ出来ないけれど、少なくとも第一話に関してはOVA版とTV版の間には数万倍近い差があるかのように感じた。数万倍TV版の方が劣っているように思う。

映像演出に正解というものはないにしても、間違いは存在するはずだ。TV版は明らかに間違った作り方をしている。
しかも、進んで製作者が間違いの側に進んでいることが重大な欠陥だ。

ディレクターの津田尚克はインタビューで次のように語っている。

Q1.3部を映像化する」にあたって大切にしたいと考えていること 

原作のテイストを大事にしていきたいと考えています。1、2部をアニメ化した時と基本方針は変わっていません。元からのジョジョファンも1、2からファンになってくれた人にも、これから見てみようかなって思ってくれている人にも、皆さんに楽しんで貰える様に工夫はしていきますが、基本は変えるつもりはありません。

1部、2部を見ていない人に説明すると、それらは原作のセリフを出来るだけ拾うことを第一の演出方針として作られていた。どれだけ長いセリフ、どうでもいいモブのセリフといったマンガで印象的だった言葉をとにかく詰め込むことで面白さを獲得しようとしていたし、名作とまではいかないまでもファンムービーとしては一定の水準を確保していた。

ジョジョの1部、2部は明らかに『北斗の拳』の 影響下にある作品群の一つだった。だからこそ、アニメでも有象無象のガヤが突如挿入されても違和感を感じず、逆に親和性があった。

しかし、3部からは絵も、物語もより強く独自性が現れている。それにも関わらず、津田は1部、2部と同じ演出方法を選択していることは正解とは言えないはずだ。

3部の独自性とはなにか。それは承太郎というキャラクターだ。あのビジュアルであり、なによりもヤンキー的なタイマンだ。
ラストのDIOとの決戦。両者がザ・ワールドを用いて、他の人間は止まり世界は二人だけの決闘場となった。タイマンがテーマの作品と言ってもいいだろう。
にも関わらず、TV版ジョジョはガヤを挿入する。あまりにも冗長であると同時に、それはタイマンとは対極の乱闘的要素を多いに含む。タイマン的映像空間が一片に崩れ去ってしまうのだ。

TV版ジョジョがこの演出方針を続けるならば、面白くなる可能性はほぼ0だと言っていいでしょう。

ほぼ0を完全に0にしているのが、演出家の構成力の欠如だ。

手短に済ませればいいホリーの描写を長々と何度も映したり、DIOの発見を最初に持ってきたのはいいとして後半でも再び同様の内容を持ってきたりと手際が悪すぎる。

一方OVA版ではジョセフや、ホリーらの描写は極力控え承太郎とアブドゥルに多くの焦点を充てている。その結果、タメを使った緊迫感のある戦闘描写が描かれていた。

是非比較して見てほしい。


あのセリフや、あのポーズを見たいというのなら以前出たPS3のオールスターバトルのムービーだけを見ればいい。私はそれ以上の映像作品としてのジョジョが見たいのだ。