アコーディオンや、バイオリンで奏でられる劇伴と、ギャグの連続で鑑賞中は多幸感に包まれる。しかし、物足りなさがどこかに残り続けていた。
それは、この作品が単にかつての回顧趣味でしかないからだ。そのことは、主人公のイジーが冒頭で語っている「最近の映画はことあるごとに、リアルを追求する。死や、不幸。そんなのは私の周りには沢山ある日常よ。映画ってのは魔法なの、幸せな魔法に浸かることの何が悪いのかしら!」、と。
僕だって、彼女の意見に同意する部分は沢山ある。ダークナイトフォロワーみたいな、うじうじした“リアル”ヒーローは好きじゃない。けど、この映画が嫌ってるリアルって、話の展開や、ディテールのリアルではなく、現代の価値観までも敵視してるように感じてならないのだ。
もっとも顕著に現れてるのは、売春婦のイジーというキャラクターの造形だ。彼女は、男に幸せを与えることに満足をしているんだ、と語るけど、これはどう考えたって男の理想を投影しすぎだろ。男が女を金で買うことの罪悪感を減少させるための詭弁だろ! しかも、女たちはセックスしてお金をくれたことに関してとても大きな感謝をする、たとえばそのお金で大学にいけたとか、ネイリストになれたとか。女を買っておいて、あしながおじさん気取りしたいジジイの戯れ言にすぎないんだよ。助けたいなら、セックスを介さずに助けりゃいいじゃん。
PCや、ジェンダーをとやかく叫ぶヤツも僕は嫌いだが、これはあまりにも時代錯誤な価値観で作られすぎている。きっとボグダノヴィッチ監督は、石原慎太郎みたいな老害ジジイなんだろうな。