アドセンス2

2013年11月8日金曜日

評/感想 最狂哲学ホラー映画 ヤン・シュヴァンクマイエル監督「ルナシー」


チェコ、パペットアニメの始祖にして、世紀の鬼才ヤン・シュヴァンクマイエル監督の「ルナシー」!
といっても、私は彼の映画を観るのはこれが初めてなのでひとまずそのような肩書き的なものは一切置いておく形でこの映画を語りたい。

吉祥寺バウスシアターにて開催されていた「チェコアニメ映画祭」の枠で観てきた。

予備知識のないままに、客席に座り、予告編も無いままに本編が始まる。
最初のカットから度肝を抜かれた。なぜなら、監督自身が映画をネタバレしつつ紹介をしだすのだ。

「この映画はアートではない。ホラーだ。この映画のベースには、マルキドサドとエドガーアランポーがある。
精神の病を直すのに必要なものは自由か、統制のいずれかである。この映画では両者の短所を用いる。」彼が語り終えると、目の前をステーキ肉が芋虫のような動きで通りすぎる。そしてカットが代わり、人が腹を裂かれ、臓物が体内から滝のように溢れ出る。このようにして本編が始まる。

映画を鑑賞してようやく理解したが、ここまでの説明の部分が本当にそのまま映画となっている。外皮を剥かれた肉塊としてのむき出しの狂気的人間性が、彼の語りをそのままに紡ぐ。

自由の象徴となる男が、侯爵だ。侯爵はフランス語でmarquis。そう、そのまんまマルキドサドから多くの意匠を受けている。
彼は宗教的、道徳的、法的なあらゆる制約を否定し、究極的な肉体的愉楽を自由の達成すべき目標と掲げる。
母の葬式の帰りの宿で幻覚に襲われた主人公ジャンを助け、侯爵は自らの屋敷へと案内する。(その道中も大変に魅力的なシーンだ。寂しい田園の中、狂気の人々がぽつんぽつんと窓越しに見える。しかし、誰もそれに疑問をいだかない。万人が狂気に陥っていることを感覚的にヤン監督は説明している。)

彼は一晩侯爵の城に厄介になることになる。その夜、彼は窓の外に馬車が止まる事に気がつく。すると中から女がひきづり出され、礼拝場へ押し込まれる。彼は隠れながら中を見ると、侯爵はマリア像に無数の釘を打ちながらキリストを罵倒し、自由ばんざいと叫びながら女をレイプしているのだった。
しかし、その姿はどこか神聖な儀式のように撮影されている。アナーキーとしての自由を彼は目撃したのだ。

そのようにして、彼は自由に対しての懐疑を重ねる。この地は、権力の所有者を監禁された地であることを彼は知る事となる。狂気的な自由から、逃げ込む様にジャンは権力者を地上に復活させる。しかし、それは秩序の復活ではなく、ただ暴力による統制が戻るだけだった。

フランス革命のラ・マルセイエーズとアンシャンレジームの対比の様な相対する、自由と統制の狭間でジャンが格闘するというのがこの映画の主題である。
そして、双方の恐ろしさを監督はホラーと呼称しているのだ。

そして、チェコアニメの巨匠だけあり映像も本当にすばらしい。メインシナリオと平行して、肉塊が動き回るコマ撮りアニメーションが挿入される。このコラージュ感覚は方々で指摘されている通り、まどかマギカでおなじみとなった劇団イヌカレーの始祖である。コマ撮りという手法自体がもつ、動きのいびつさ、ロウファイさが、CG全盛期の今だからこそ観客に感覚的な恐怖を抱かせる。

また途中で行われるアートセラピーのシーンなど私の映画体験でも有数の名シーンに入る。太った裸の女性に、精神病患者が色とりどりのペイントボールを投げつけたり、版画用ローラーで部屋の至る所を塗っていく。痛々しいほどの原色が空間を飛び回り、そして交わり言い表せぬような汚い色へと交わる光景だけでも十分に魅力的なのだが最大の功績は患者だ。なぜなら、監督はその役を俳優にではなく、本当の精神病患者にやらせているのだ。虚構の中の狂気は嘘っぽく、そして薄っぺらく見えがちな点を完全に回避して描けている希有な作品だ。

乗るか反るかはかなり分かれる作品である事は間違いないだろうが、この作品が問いかけるメッセージは人間にとって普遍的な問題と言える。この映画に対する嫌悪それ自身が、サドやポーの作品との同一性を物語っている。
すくなくとも他の映画では絶対にできない映画体験を本作では味わえる。