アドセンス2

2014年3月1日土曜日

【東京低級デート】ふれあい下水道館で、ありのままの彼女を愛せ!


デートとはお互いのことをより深く理解し合うために、我々は繰り返し遊びに出かけているのだ。
たとえば、一緒に映画を見に行って感想を語らうのは、二人の価値観がどれだけ同じか、あるいは違うのかを交際する前に探りあうからだ。

しかし、洗練されたデートでは上辺だけの事しか理解し合えない。我々は、より人間的で、肉体に則した部分を今まで蔑ろにしてきたのだ。

その最たるものが「便通」だ。

カップルはお互いのうんこに対して秘匿したがる。何を隠そう、私も普段男友達には「うんこしてくる」と言っているにも関わらず、彼女を相手には「あ、ちょっとトイレ」と言う始末だ。
かつてのアイドルのように、清潔で、ロマンティックなイメージを保持する意図を誰しも、幾ばくか持っているのだ。

しかしそうではなく、ウンコをする等身大の一個人として愛しあうことが本当のカップルには必要なはずだ。

そこでうってつけなのが、『ふれあい下水道館』だ。

なんと本当に下水管の中に入って、下水とふれあえるというのだ。

アドレス
東京都小平市上水本町1-25-31
西武国分寺線鷹の台駅下車 徒歩7
開館時間:午前10時~午後4
休館日:月曜(休日・祝日の場合は、その翌日)・年末年始(1227日から15日まで)
入館無料
問合せ Tel042-326-7411



鷹の台駅が最寄り駅と書かれているが、JR国分寺駅から施設の前までバスも通っているのでそちらの方が便利かもしれない。

駐車場も完備されていたので私は車で向かった。


視認性の高い看板がGOOD!


90年代感あふれるCGモデリングのキャラクターがお出迎え。


建物はこんな感じ。比較的新しく、綺麗で、どこかギリシア建築を彷彿させる壮麗さ。
とても下水道館には見えない。


いかにも公共施設っぽい表札に趣を感じます。

そして...入り口へ...


衝撃の警告文!
エントランスの扉に臭いの注意を換気するメッセージが貼られているのはここの他には無いだろう。あとドアではなく、ドアーという表記をしているのはきっと作成者がジム・モリソンのファンだからだろう。


警告文にかなりビクつき、恐る恐るガラス戸を開ける。

意外と臭くない!というか、無臭!そして、内装が超綺麗!

とても下水道館とは思えない。エントランスに巨大な水槽があったりして、高級ラブホテルみたいな雰囲気だ。

この建物、地上二階、地下五階とかなり巨大。そして件の下水管は、最下層にある。
私は最下層に直行した。



ムーディーな階段には武蔵野平野の地層が飾られている。受験以来目にしていなかった関東ローム層の文字に一抹のノスタルジーを感じていると見えてきました。


ふれあい体験室!!

ひゃっほー!下水に浸かろう!!触れ合おう!とテンションが高まってきます。


このイカツイ扉の先が下水管室...

オープン...


あれ...

強烈な臭いに身構えて入るとびっくり

ロビー風な部屋に、数々の下水関係の展示物が置かれています。

そう、一気に臭いが充満しないために、此処から先も何重ものエアロックが施されていたのです。
この部屋もまだ全然臭くありませんでした。


部屋の奥に、ありました。体験コーナー
いかにも下水道っぽい緑色のモルタルにテンションがぶち上がります!


坑道のような内部はかなりかっこいい!なんて思っていると、水流の音が聞こえてきます...

そしてついに対面です!





うわー!色が凄まじいし、超臭い!数秒いるのが限界です!

例えるなら、臭いトイレを、100倍くらい臭くした臭い!おもわず、咳き込んでしまいますが、息を吸うと余計に臭いが入ってきて頭がクラクラしてきました。

走るように、ここから私は立ち去りました。
しかし、鼻毛に臭いの粒子がくっついて取れないかのように、ずーっと強烈な臭いの残り香が鼻を付きまといました。

その他の展示も書こうと思いましたが、面倒になったので割愛させていただきます。
結構よく出来ていて、下水の仕組みがよくわかりました。

梶井基次郎は「櫻の樹の下には死体が埋まっている」と言いました。表面的な美を下支えする醜を喝破した名エッセイです。

我々の生活は一見清潔に見えますが、それはこの街の地下をとんでもなく汚い我々のウンコが流れているから成り立っているのです。まさしく、梶井の指摘した形そのものです。

食事を取る前に「いただきます」と生産者や、食す命に対して感謝を述べるのと同じく、我々はウンコをするときに「ウンコをさせていただきます」と下水業界akaGS業界に感謝をしながらヒリ出すべきだとせつに思う次第となりました。

私は下水道業界を勝手に応援します!


2014年2月26日水曜日

【評/感想】『土竜の唄 潜入捜査官REIJI』ダダ滑り!映画史に残る寒さ!純粋クドカン批判


宮藤官九郎という作家は私にとって大変置き場に困る人物の一人だ。みうらんじゅん・原作、宮藤官九郎・脚本の『アイデン&ティティ』、『色即ぜねれいしょん』は私の最も好きな作品である一方で、彼が構成作家を務めていた『笑う犬』や『ワンナイ』はそのつまらなさに観ると蕁麻疹に襲われるほどの嫌悪感を抱いている。

熱心なファンではないので彼のキャリアの半分ほども見てはいないが、 宮藤官九郎はリアリティレベルが現実に近いほど良い作品をつくり、反対に突飛な設定ではその良さを発揮できず、はっきり言えば滑る作家だと前々から思っていた。

宮藤官九郎と、三池崇史がタッグを組んだ『土竜の唄 潜入捜査官REIJI』は、完全に後者に振り切っている。

交番勤務の警察官・菊川玲ニ(生田斗真)は行き過ぎた正義感から、市民に銃を突き付けたりと幾つものトラブルを起こし、クビにされかけるも、彼の資質を買われ潜入捜査官として暴力団・数奇矢会壊滅の命を受ける。
数奇矢会傘下の阿湖義組若頭クレイジーパピヨンこと日浦匡也(堤真一)と死闘の末、「男気」を買われ兄弟杯を交わし晴れて構成員となった菊川は内部での麻薬取引ルートを摘発するべく奔走する

一見インファナル・アフェアなどを思い起こすプロットだが、そういった「バレるか、バレないか」でハラハラさせるサスペンス性は一切ない。生田斗真が「男気」でヤバい局面を乗り切るというおバカ映画の方向で作っている。
たとえば、組長との親子の盃の義で「杯をふところにお納めください」という言葉を勘違いし、本当に杯を食べてしまうようなバカだけれど男気があるようにキャラクターを描いている。

でも、これってギャグとしてすっごく寒くないですか?
物語の転機となる大ネタがこのコロコロコミック以下の寒い古典ギャグ。かろうじて三池崇史が仰々しい雰囲気で誤魔化しているが劇場は明らかに冷めていた。

その他にも見ている方が恥ずかしくなるダダ滑りギャグが連発。特に土竜の唄と掛けて、ヤクザまがいの強面潜入捜査室の面々が歌うスローガンの『土竜の唄』が筆舌に尽くしがたいほど寒い。しかも、劇中で何度も見せられるからたちが悪い。

怖そうなおっさんがノリノリで歌うのを面白いと思うセンスは10年前でも古かっただろうに恥ずかしげもなくこんなにもつまらないネタを仕込む宮藤官九郎に、逆に男気を感じてしまう。

宮藤官九郎作品が突飛になるほどつまらなくなるのは、軽薄さと、凡庸さが浮き彫りになるからだと私は考える。
ファンが指摘する通り宮藤官九郎の魅力は小ネタだ。マニアック(っぽいだけだと思っているけど)でクスっと来たり、間を活かした笑いだったりというのが武器なのだが、それらのギャグの強度は世界観が現実的なものの方がより映えることは明らかで、今回の映画でのそれらは明らかに設定に霞み、逆に物語の展開を阻害する障害物としての機能しか果たしていない。

また今回の映画のもうひとつの軸は童貞ネタなのだが、そもそも生田斗真が童貞ってと男なら誰しも言いたくなるだろう。この映画にしろ、 その他のドラマにしても宮藤官九郎の描く童貞は、モテるポテンシャルを持っていながら運の悪さと、間の悪さが祟って挿入に至ることができなかった人物が多い。いわば99パーセント非童貞の童貞で、童貞ネタをやっていることが多く非常にいやらしいというか、率直に言えば頭にくるほどウザい。

そして童貞を軸に書くネタもあまりにも書割的すぎる。今年30歳になる生田斗真がビキニ写真に喜んで飛びつくというのは記号的な演出にしたって無理がある。

取り留めのない批判が続いたが最大の欠点は、薄っぺらさだ。バカさから始まり滑ったギャグを「男気」といい、童貞ネタを扱う割にはエロに対しても真摯さが全くないにも関わらず、いかにもぶっ飛んでることをやっています、きわどいエロをやっています、と言いたげな雰囲気を醸し出しているところに始終苛つきを感じてしまう。

昨年は連続ドラマ『あまちゃん』を手掛け、その他にも『中学生円山』、『謝罪の王様』といった映画作品を製作した中での一作だけに彼の本来の力量を存分に発揮した作品とは言い難いだろう。しかし、それならばこんな作品を作るべきではなかった。

コメディ映画をクスリともせず、真顔で2時間観る苦痛を宮藤官九郎は知っているのだろうか。


2014年2月23日日曜日

【評/感想】『17歳』居場所探しが導く場所は



17歳。田村ゆかりらの17歳教、尾崎豊の『十七歳の地図』、雑誌セブンティーン。ただの年齢以上の意味を持っている。26歳や、52歳などとは全く違うのだ。
17歳という年齢のキラキラした青春という部分だけが目につきがちだが、それはひとつの側面でしかない。きっとそれは大人と子供の中間で、どちらの良さも調和しながら発揮できた結果だ。しかし、必ずしもそうとは限らない。フランソワ・オゾンの映画『17歳』は、不和どころか互いが互いの欠点を増幅するような形で少女を導く暗黒の青春映画だ。

恵まれた家庭で育った少女イサベルは17歳の誕生日を美しいビーチのバカンス先で過ごし、そしてそこで年上の大学生と初体験をした。自分の美しさに無自覚なまま無邪気に色気を振りまいていたビキニ姿が鮮烈だったが、シーンは一転し秋へ映る。

それまですっぴんだったイサベルの口元には真っ赤な口紅が塗られ、グレーのブラウスに黒のジャケットを羽織り、ヒールをカツカツと鳴らし街を闊歩し、ホテルの入り口を潜る。その出で立ちはまさしく「女」のそれだ。

彼女がそのホテルへ来た理由は援助交際だ。SNSで約束し、部屋で待ち合わせる。彼女は病的に援交を繰り返すが、ある事件をきっかけにこの事実が家族にばれてしまう―

私は見ていてとても苦しい気持ちだった。ミューズと言ってもいい美しさを持つイサベルが、自ら積極的なまでに堕ちていく姿に心を痛める。セックスワーカーを侮蔑するなという倫理的な説教をされても構わない。彼女の姿を「汚れていく」という言葉でしか私は表現できない。

映画の中で彼女は全ての誘いに応じていることが分かる。演劇にも、同級生とのパーティにも、同級生からのキスも彼女は断らない。彼女が売春を始めた理由も同様に、単に誘われたからなのだ。

また、印象的なのは誘われて行った場所で彼女はキョロキョロとあたりを物色したり、建物の中をうろちょろと歩きまわる。まさしく、思春期特有の居場所を探しだ。

そのなかで、彼女が売春だけは続けた理由は彼女に対してもとめるだけではなく、彼女に何かを与えようと、彼女を喜ばせようと男がしたからだ。イサベルを他者として承認した上で、彼女にたいして尽くすことに喜びを覚えたからでしょう。

この映画はファッションによる演出が素晴らしい。少女の時には、モッズコートを着て、女の時にはコンサバなスーツを羽織るのだが、シーンごとの着こなしにより、とても似合っている時もあれば、まったく様になっていない時もある。
脱皮をするように服を着替え、彼女は自分のスタイルを探していくことが映画の魅力を数倍にも大きくしている。

どちらかと言えば私は童貞気質の抜け切らないタイプだけに、女の子の気持ちを理解しているなんて言えない。それだけに、女性の感想を聞きたい一本だ。