アドセンス2

2014年5月24日土曜日

【評/感想】『機動戦士ガンダムUC episode7 虹の彼方に』 贋物の物語、宇宙世紀という呪縛



贋物の物語


ガンダムUCを通底するテーマは「贋物」だ。シャアのクローンであるフル・フロンタル、白いガンダムと黒いガンダム、人工的ニュータイプの強化人間、そしてepisode7で明かされるレプリカの連邦憲章。ガンダムUCは様々な本物と贋物というテーマを反復され作られている。なぜなのか。それを答えるには、一度「ガンダム」という巨大な作品群総体を迂回しなければならない。

『機動戦士ガンダム』は富野由悠季の手によって1979年に放映された。当然ながらその当時は、「ガンダムシリーズ」ではなく単発のテレビアニメの一つだった。事実上シリーズとなったのは、1985年の『機動戦士Zガンダム』からだ。この作品を契機に、無限とも言える宇宙世紀とロボットをめぐる物語が作られ、巨大な世界観を築き上げたわけだ。

当然その作品たちの中には、批判にさらされるものも多い。いや、全ての作品が何らかの形で避難を受けている。特に大きな批判者は、いわゆる原作者・「富野由悠季信者」だ。富野の作品こそが、宇宙世紀における正史であり、他は偽史にすぎないと彼らはいう。

『機動戦士ガンダムUC 』で重要なのは、作者・福井晴敏が根からの富野由悠季信者であるということだ。福井も他の信者と同様に「富野作品以外は認めない」と言っていたことは、ほぼ間違いないだろう。そんな富野信者が、聖典的宇宙世紀に一章を書き加えることは、大きな勇気を伴う行為だ。だからこそ、福井晴敏はいささか偽悪的な形で自らの作品が「贋物」であることを認めた上でUCを書いた。

フル・フロンタルに託した最大公約数性


多くのガンダムファンはUCを「ロボットの作画だけはいい」と評価する。それが作品の実際的な評価として良いものなのかという問題は置いておいても、ガンダムファンの根源的なフェティシズムであるメカフィリアを刺激し莫大なヒットを記録したのは事実である。それを象徴するように、UCでは名無しのパイロットが乗るマイナー機体をフィーチャーし無言のまま、ただかっこ良さだけを意識しながら敵機を駆逐するシーンが多くある。全く物語とは無関係で、本来ならばストーリーの腰を折っているのだが、フェティシズムを持った観客を対象にしているために賞賛されている。

この最大公約数的なフェティシズムを刺激する作りこそ、UCのテーマなのだ。

フル・フロンタルを思い出してほしい。彼は、ネオ・ジオンの再興を依頼されたシャアのクローンだ。自らを人民の器と自称し、多くの人間を生かすためだけの合理的手段での救済方法「サイド共栄圏」の確立を画策する。

ガンダムの外伝の執筆を依頼された福井晴敏は、自らをフル・フロンタルに重ねたであろうことは疑い得ない。

宇宙世紀という呪縛からの脱出 


では本題のエピソード7を語ろう。予想がつくだろうが、主人公バナージ・リンクスとフル・フロンタルの間の戦いに決着をつけるのがメインストーリーとなっている。だが予想外にも、この戦いではこれまでの空虚なクローン人間フル・フロンタルから大きく逸脱し、彼は自らの体系的な哲学を語るのだ。彼がそこに至った理由は、シャア・アズナブルの亡霊が乗り移ったなどの諸説があるがそれらは一部のマニアに任せればいい、私にとって重要なのはここでようやく福井晴敏自身の作家性が現れた点だ。

ユニコーンガンダムとネオ・ジオンは死闘の末、虚無の世界へと誘われる。 フル・フロンタルはそこで、人間の変わらなさを非難し、結局は無に帰してしまうにも関わらず世界を変革しようとすることの無意味さを解く。

これこそ福井晴敏自身の言葉だ。UCでどんな物語を描こうともその数年後には『閃光のハサウェイ』で再び動乱が起き、『機動戦士ガンダムF91』という巨大な虐殺事件も既に用意されてしまっているのだ。ここでいかなる物語を描こうとも宇宙世紀は何一つ変わらないという非情で動かしがたい運命が下されているなか、中間点に新たな小さな紛争を書かなければならないのだ。

「それでも」マリーダ・クルスから言われ、胸に仕舞っていた言葉をバナージ・リンクスはフル・フロンタルに向かい言い放ち、彼の思想を明確に否定する。すると、いわゆる「ニュータイプ時空」以上に壮大でスピリチュアルな空間が浮かぶ。それは、ほぼ間違いなく『伝説巨神イデオン 発動篇』(これもまた富野作品だ)を意識したものだ。

イデオンでは、海などの自然物を実写で撮影したものに色とりどりの光が飛び交うアニメーションを重ねた映像をクライマックスで用いていた。UCはそれをCGで現代バージョンにアップデートした形で同様の映像を取り入れている。

このシーンによってUCは宇宙世紀の呪縛から開放された。宇宙世紀への畏敬による過去作品の縮小再生産を拒み、自らの作家性の源泉を自由に表現するという結論に至ったのだ。「どうせ、最後には悲劇しか待っていないのならば好きな様に作って何が悪いのだ」と半ば強引に、縛り上げていた鎖を破壊したのだ。

総評


はっきり言って、『虹の彼方に』を見るまでは『機動戦士ガンダムユニコーン』という作品は好きではなかった。バナージ・リンクスのキャラクターは魅力に欠け、各エピソードには熱くなる部分を見いだせなかった。しかし、ある意味それは当然で、それらは抑圧の中で書かれたものだからだ。


ガンダム作品の魅力は、富野由悠季の現実のフラストレーションを作品に落とし込み自由に表現する点にあると私は信じてやまない。UCは最終話にして、ようやく富野と同じ土俵に登る事ができた。