アドセンス2

2015年7月13日月曜日

『バケモノの子』は細田守のウザさが全開! 教育ママ的戯言がダラダラ続くクソ映画です。






細田守のキャラはセックスが嫌いそう。
一応セックスはするけど、それは子供を作るためだけで、快楽を貪るようなプレイとかはまずしない。そんな感じ。それでも、両親はラブラブ、ニコニコ、そんな家庭が細田守映画。

アニメにしては頑張って、雨雪でセックスシーンとか描いたけど、彼らはまず電マを使うプレイとかはしない。
この、攻めているようで、どこまでも健全すぎる細田守の言い分が本当に嫌い。



そして、新作の『バケモノの子』はそんなうざ〜い細田守節が最前面に出ていて反吐が止まらない。

新作も言いたいことは雨雪と同じ、「こどものやりたいことを自由に一生懸命させれば、きっと社会で役に立つ」。雨雪がまだウザすぎ! ってなんないのは、親への積極で、親の葛藤に焦点が絞られてたからだったからなんだけど、『バケモノの子』は直接的に映画館に来た、夏休みの短パンボーイズたちに、「おまえら好きなことやれ!自由に!」ってオッサンが積極しだす。PTAの教育ママは喜びそうだけど、子供にとってはうざいだけだっつーの!

で、特に細田守映画で気に入らないのは、「自由」とか「好きなこと」という言葉の範疇が、すごく狭いこと。オタッキーに引きこもって、何かやっているヤツしか許されない。サマウォのハッキング、雨雪の森、そんでバケモノでは格闘技。下界から遮断されて黙々と鍛錬を積んだヤツが、技能を活かして、リア充をボコボコにするみたいな話なわけ。
いくら「好きなことやれ!」なんて言ったって、そんな簡単に好きなことが見つかるわけはないし、才能があるとも限らない。それなのに、子供たちにみんな「自由に! 好きなこと!」なんつってまあ残酷だよね。

さらに常識的に考えて、子供なんだから、友達と夕暮れまで遊んで、家に帰るみたいな生活でいいじゃん!
それなのに、雨雪では誰もいない森に移住させられて、バケモノでは人間界から隔離させられて
友達なんかいらないぞ! やりたいことしかするな!みたいなことを言ってるオッサンって普通にクレイジーでしょ。

子供映画を作るわりに、普通の子供の感情なんてこれっぽっちも見てやいないんだよ。細田は。

まあ、親には都合がいい映画だよ。「◯◯ちゃんは好きなこと頑張りましょうね!」と焚き付けて、親の望ましいことを押し付けることをうまーく出来るわけだから。

「うちの教育方針は、子供のさせたいことをさせるだけです」なんて答えているヤツは大抵うざい。細田映画ってそんなかんじ。

2015年2月17日火曜日

映画『テラスハウス クロージング・ドア』を観た非モテが考える恋愛論

リアリティの時代



 事実は小説よりも奇なりという格言を残したのは、18世紀から19世紀にかけて活躍した英国の詩人ジョージ・ゴードン・バイドンである。バイドンは紛れも無く詩人として歴史上で5本の指に入るほどの功績があるだろう。しかし、そんな功績を霞ませるほど興味深く波乱に満ちた人生を送った作家でもある。バイドンを読んだことがなくても、ジョニー・デップが超絶プレイボーイを演じた『ドン・ファン』を観た人は多いはずだ。バイドンはその絶倫貴族に自らを投影するほどの恋愛遍歴をもち、さらにイギリスの反工業化運動の弾圧を自ら率先し、ギリシア独立戦争に赴き、戦地で死んだという並の小説では適わない程の人生を送った。先の格言は、彼の人生そのものを表した言葉であると私は思う。
 バイドン程ではなくてもドキュメンタリー映画や、リアリティショーは実在の人間の持つ圧倒的個性と、偶然性が産み出す推進力が我々を魅了して止まない。特に、フィクションのネタ切れが著しい今、映画界全体がリアルへとシフトしている。昨年公開された『アクト・オブ・キリング』はドキュメンタリー映画でありながら映画ファンの話題を独占し、ストーリー映画でも本年のアカデミー作品賞全8作品の内6作品が元となる事実をベースにしている。
 日本のテレビ業界でも、この傾向は変わらない。NHKが制作し、社会のマイノリティを生々しく、しかし暖かな視線を持ちながらにフィルムに収めたドキュメンタリー番組『ドキュメント72時間』は教養番組にしては異例のヒットとなり、年末に特集番組が組まれたほどだ。
 そして、忘れてならないのが『テラスハウス』である。

テラスハウスを見なければコンテンツは語れない




 僕はテラスハウスを観たことがなかったし、観たいとも思わなかった。 リア充が恋愛をして付き合おうが、振られようがマジでどうでもいい。いったい、どうやってそんなものを楽しめばいいのかも正直分からなかった。しかし、大学の友人に誘われて渋々と映画館に向かった。「テラスハウスを見なければ、現代のコンテンツは語れない」彼は僕にそう語ったからだ。

 まず驚かされたのはテラスハウスの人気だ。公開初日の2月14日に観に行こうとすると、都心のほとんどの映画館で数時間前にはチケットが完売をしていて、僕らはお互いの家から遠くアクセスの悪い豊島園の映画館に行かざるを得なかった。そこは都心から外れ、交通手段の限られる映画館だが、それでもレイトショーで6から7割以上の座席が埋まっていた。また、映画館で販売されていたオフィシャルガイドブックは公開初日にして完売していた。僕を含め、多くの映画ファンはテラスハウスの映画なんて映画じゃないと一蹴をしていたけれど、少なくとも興行成績でのみならば無視できない規模を獲得するはずだ。

 この劇場版テラスハウスには、映画的ギミックや技術は一切ない。何一つテレビ版と変わらないのだ。スクリーンのサイズは、地上波デジタル放送と同じ16:9のビスタサイズ。さらに、画面構成もテレビの手法そのもので、基本的には顔のアップと、固定カメラによる撮影ばかりである。また、テラスハウスではおなじみの(観たことないけれど)南海キャンディーズの山里亮太や、YOUが出演するひな壇形式のバラエティパートもそのまま残っている。本当にテレビそのものなのだ。
 このバラエティパートは大きな失敗だったように感じる。テレビと何一つ変わらないですよ、といいつつもやはり映画館でやっている以上、観客は映画として身構えて鑑賞をする。本来ならば偶然性から生まれるトークのウィットが笑いを生み出すひな壇芸が、劇場の場では<存在する、しない>に関わらず脚本的作為の所産へと転じ、本来持っていた笑いの程度から大きな減退を避けられない。メディアには然るべき形態があるというのは旧知の事実ではあるが、やはりバラエティ番組的なノリはお茶の間に最適化されたものであることを再確認出来た。


こんな恋愛ならしたくない

 テラスハウスの本筋は想像以上に酷かった。恋愛をテーマにしながら、全く恋愛が描けていないからだ。テラスハウスの構造はとてもシンプルで、告白して、<付き合うor付き合わない>か。その前の段階ならば、デートに誘って、<行くor行かない>か。この2択の連続のみで構成されているのだ。
 本来恋愛は、相手に感嘆をし、そしてその相手と「こんなことが出来たなら」と夢想をし、この二つのプロセスが結晶化された先に恋が生まれる。恋愛の経過を図式化したのは、『赤と黒』などを執筆した19世紀の小説家スタンダールではあるが、この図式自体は未だ多くの映画における物語理論に応用され続けている。テラスハウスはといえば、特に前触れなしに、唐突に告白から始まるのである。

 ラブストーリーの魅力は、「僕も誰かかわいい女の子と、同じようなことが出来ればな」という自己投影に成り立つ。そのためには、二者の関係が幸せそうに、楽しそうに見せなければならない。しかしテラスハウスでは、容赦なくそのような二人の楽しげな会話はカットされ、残されているのは最後の告白のみであるために、恋愛固有のロマンティックが存在しないのだ。
 さらにこのことは、リアリティ番組という形式が持つ面白味を根幹から無効化する。前述のとおり、テラスハウスには恋愛以前の、気ままな会話などが完全にカットされている。要するに、個人の持つ本来的な魅力などが入り込む余地が非常に限られてしまうのだ。テラスハウスの住人たちは、ただ恋愛をする存在としてのみのキャラクターへと純化され、フィクション以上にフィクション的になる。

 リアリティショーがフィクション的となるというのは、まさに事実は小説よりも奇なりと、本来ならば人間の分からなさや、深淵にたどり着くことを意味するものの、テラスハウスでは事情が違う。テラスハウスにおいてフィクション的となるというのは、虚構に含まれる陳腐さが極大化するということである。

 登場人物たちから人間としての実人生が剥奪されることによって、限りなく陳腐で、恋愛中心主義的な軽薄な人間像が生まれ、語る言葉といえば下らないラブコメ映画のセリフを足らない脳みそで再現したような重みにかけたものである。素人が自ら脚本を書き、そして演じる、ただただ面白味を欠いた三文芝居がテラスハウスの恋愛模様なのである。

 テラスハウスの公式サイトによれば、このショーは「若者たちの本当の姿」が描かれているから、ウケているのだという。それならば、多くの若者たちのリアルの人生はあまりにも表層的な人間関係のみで構成されているのかもしれない。「誰かが、誰かを好きらしい」たしかにそんな噂話も面白い。しかし、それだけしかないコミュニケーションだったならなんて薄く、実りのすくないことだろうか。人事ながら心配になってしまう。
 僕は、テラスハウスみたいな人間にはなりたくない。