アドセンス2

2014年6月16日月曜日

【評/感想】『ノア 約束の舟』 恐怖!カルト信者のサイコスリラー! アロノフスキーの危険な挑戦

アロノフスキーの危険な挑戦


神が地上を滅ぼそうとしていることを知り、さらに全ての人類をみごろしにしろということを命じてきたなら、あなたはどうするだろう?
全ての人間の死を目の当たりにするなんて、まともな精神を持った人間にとても耐えられることではないはずだ。

旧約聖書のノアの記述は紙面にしてみれば約1ページほどの短い、箇条書き程度のものだ。そこには(宗教的)史実の淡々とした連続があるのみで、心情描写は欠けていた。

ダーレン・アロノフスキー監督は、一貫して心理描写に重点をおいて描いてきた作家だ。さらにより踏み込めば、何かに取り憑かれた人間の末路を描いてきた。『π』は数学に、『レスラー』はプロレスに、『ブラック・スワン』はバレエの役柄に、病的に取り憑かれた挙句、精神が狂うような人間たちの物語だ。

『ノア 約束の舟』はかなり挑戦的な方法での旧約聖書の映画化でありつつ、アロノフスキー監督の作家性から見れば当然の手法で作られている。この映画において、ノアはただ神の従順なる下僕というだけでなく、神への過度の信仰から狂信者に成り果てるという物語に仕上げたのだ。この作品は、スペクタクル超大作ではなく、かなり危険な宗教サイコスリラー映画だ。

カルト信者としてのノア


ストーリー自体は旧約聖書のものとほぼ同じ道筋をたどるのだが、一点決定的に異なるところがある。創世記7章7節の「ノアは子らと、妻と、子らの妻たちと共に洪水を避けて箱舟にはいった。」という部分が大きく書き換えられている。ノア(ラッセル・クロウ)の子供は、ハムと、セムと、ヤペテの3人いるが、セム(ダグラス・ブース)以外の二人には妻を持たない。さらに、セムの妻となるイラ(エマ・ワトソン)は幼いころの怪我で、子を生む機能を失っているという複雑な設定が追加されているのだ。(ちなみに、イラは旧約聖書には登場しない本作のオリジナルキャラクターだ)

この設定の変更が意味するのは、ノアの一家は方舟で大洪水を生き延びたとしても、世継が生まれないために人類はノアの子を最後に終わりを迎えるということだ。ノアの家族は、地上を再び楽園にするための運び人という役割を聖書以上に強調されているのだ。

だが、文字通りの奇跡がイラの身に起こる。ノアの祖父・メトセラ(アンソニー・ホプキンス)により祝福を受けると、彼女の生殖機能は復活し、子を身籠るのだった。この喜ばしい異変が、一家を悲劇のどん底へ投げ込む。

ノアは神の預言を、人類は滅亡すべきというメッセージとして理解していたからだ。イラの子供が生まれたとしても、地上に生を受けたと同時に首を掻き切ると宣告するのだ。神への信仰が、ノアを実の孫を殺そうとする血も涙もない人間へと変容させる。

そして、クライマックスでは、方舟という密室空間でスタンリー・キューブリック『シャイニング』のようなホラー的なまでの殺しの追跡者にノアはなってしまう。

自由とはアナーキーか




盲目的な信仰を過激な形で描くのは、逆説的な形で人間の自由という問題を描こうという意図があるからだ。象徴する人物が街を治める王・トバルカイン(レイ・ウィンスレット)だ。「神から与えられた人間の能力は使うためにあるのだ!」と、暴力で全てを収奪する弱肉強食を地で行く。

というと、残虐非道な人物であるという面が強調されるが、トバルカインがもっとも尊重するのは人間の自由意志だ。神の声がもはや遠く聞こえない人間は、己の行為するところを自分で決断する意外ないのだ。

アナーキーとしての自由と、妄信的信仰による虐殺。アロノフスキーはどちらに与するわけでもなく、宗教世界に必ず付きまとうふたつの考えを最悪な形で再現しているのだ。

ノアにまつわる宗教的問題


映画の感想をネットで調べていたところ、「キリスト教布教映画だった」というコメントを少なくない数目にした。しかし、これは大きな間違いだ。旧約聖書は、キリスト教教典であると同時に、ユダヤ教の聖典でもあり、イスラム教のサブテキストでもある。また、この映画のアロノフスキーはユダヤ教徒であるため、キリスト教的であるという批判は制作的な意味でも誤りだ。

さらに、この映画はキリスト教者からは強い批判をされる余地があることを一点指摘したい。それは、旧約聖書120節からの、

神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。

という記述にあたる、生物創造論だ。

アロノフスキーは、『ノア 約束の舟』で、創世記の冒頭の天地創造からの7日間をCGで再現されたさなかの、3日目の生物創造を、進化論と創造論を折衷した形で描いている。つまり、はじめ海で生まれた魚が猛スピードで進化をとげ、大空に羽ばたく鳥となり、最終的にはオランウータンにまで辿り着くのだ。


宗教の信徒から見れば憤怒の対象になりかねず、科学を信奉する人間からは荒唐無稽と思われかねないが、それだけいかなる勢力の見解とも一線を画すような配慮の結果だろう。