アドセンス2

2014年12月14日日曜日

SEKAI NO OWARI論 表層的なファンタジーの下にある、貧困すぎる想像力

SEKAI NO OWARIは中二病ではない



<ドラゴンナイト、ドラゴンナイト、ドラゴンナイト>

これは、小学生向けのTVアニメのオープニングソングではない、SEKAI NO OWARIの最新シングルのタイトルであり、同曲のサビである。しばしば、中二病とSEKAI NO OWARIは揶揄されるが僕は同意しかねる、この歌詞はもはや中二病という概念を大きく逸脱しているからだ。たとえば5歳児がオリジナルキャラクターを作って、授ける名前のような。我々が持っていた既存の中二病的ファンタジーの想像力テイルズシリーズのような―と比較しても明らかに幼稚すぎるのだ。
さらにボーカルで作詞を行う深瀬慧は今年29歳、殆ど「おっさん」であるということが、より幼稚さを際立たせる。

しかし、幼稚さが必ずしも非難の対象になるとは限らない。SEKAI NO OWARIの場合は特に、バンド自体がもつ独特な雰囲気がチャイルディッシュな詩に無限大とも言える奥行きを持たせていると僕は考える。彼らの音楽性は紛れも無く、彼らにしか作ることが出来ない。紛れも無くSEKAI NO OWARIはアーティストである。

「ファンタジー」の始まりに見る、凡庸さ

SEKAI NO OWARIが「ファンタジー」というモチーフを歌い始めたのは、インディーズ時代“世界の終わり”名義で活動していた頃にまで遡る。その曲がまさしく『ファンタジー』というタイトルのナンバーである。

Let's sing a song Wipe your tears
Put your hands up いつだって僕たちの365日はHeartache”ばっかりで元気がなくなっちまうなそりゃまあソレも愛すべき敵だけど今日くらいはあっちいってくれよ今日は幻想的な世界へ連れてってあげる

これが同曲の一番の歌詞だ。<幻想的な世界>というフレーズはあれど、僕らが一般的に抱く「ファンタジー」というイメージからは程遠い。剣とドラゴン的な世界が語られることはなく、「辛いこともあるけど、元気だせよ」という陳腐でありきたりなJポップの類型的な歌詞にすぎない。僕はこの詩から、独創性を見出すことは、砂漠でコインを見つけることよりも難しいように思う。
しかし、ここで見逃せないのが、SEKAI NO OWARIにとって「ファンタジー」の世界とは、「彼らが連れて行く場所」として定義されている点である。 この構造はリリック上でも、ライブのコンセプトでもこの後に反復して登場する。

彼らは何故、着飾るのか

SEKAI NO OWARIが世間に広く認知されたのは『眠り姫』、『RPG』からだろう。この2曲から、バンドはより自覚的に「ファンタジー」というコンセプトを商品の付加価値として提供し始めた。変化は特に、ファッションと歌詞に現れた。

実はSEKAI NO OWARIは最初からバンドメンバーが統一されたユニフォームを着て活動していたわけではない。『眠り姫』の一つ前のシングル『スターライトパレード』ではこのように不統一でカジュアルな衣装だったのが、



『眠り姫』以降コンセプチュアルな世界観を打ち出すために変化した。さらにボーカル・深瀬慧の髪色が現在のトレードマークである赤色になったのもこの時からだ。


『眠り姫』は、歌詞の中ではじめて具体的な固有名詞を伴ってファンタジーの世界を歌ったという点でも重要な契機を担う作品である。

ボーっと火を吹くドラゴンも僕ら二人で戦ったね勇者の剣も見つけてきたよねAh このまま君が起きなかったらどうしようそんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ

ゲーム『ダンジョンズ&ドラゴンズ』でステレオタイプ化された「剣とドラゴン」の世界がここでようやく見て取れるわけだが、深瀬慧の歌詞はそのステレオタイプを踏襲しながら、ただ語ったにすぎない。
たとえば、サッカーを表現するにあたって、「パスして、ゴールを決めた」と言うのと同じようなものだ。

深瀬はインタビューで
「自分らしさ」って何だろう?っていうのを追求して、未来永劫残ってくれるものを作っていくためには、やっぱりオリジナリティが不可欠
と述べてるが、『眠り姫』で表現する世界観にはオリジナリティは全く伴っていない。それどころか、表現として最悪の語り方を行っている。

貧困な想像力と、壊滅的なリリシズム



以降彼らは、ファンタジー路線を突き進むものの、『眠り姫』で見せた表現の表層さは一向に改善されない。
2014年1月に発売され、はじめてオリコン1位を獲得した『スノーマジックファンタジー』を見てみよう。

スノーマジックファンタジー雪の魔法にかけられて僕は君に恋したもしかして君は雪の妖精?ぼくは星の降る雪山で、君をみるまではオカルトの類いはまったく信じていなかったのだけれども君が住む山は"スノーランド"
一年中、雪の降るこの国で私は生まれたの、と君は話してくれたんだ

ただただ呆れてしまう。小学生がノートに書く漫画の方が、よほどオリジナリティがあるはずだ。
まず、冒頭の<スノーマジックファンタジー 雪の魔法にかけられて>というのは、前後共に同じことを言っているにすぎないし(井上陽水の「川沿いリバーサイド」が笑い草になるように)、「雪の降る国」=「スノーランド」というのはあまりにも安直すぎるネーミングだ。本当に中二病的ならば、ブリザードエンパイアとか、もう少し凝った表現が現れるはずだ。



続く『炎と森のカーニバル』にも全く同じ批判が当てはまる
 巨大な樹が支配する、会場の名は”ツリーランド”君はここでは大スターほら、鐘がなった パーティーが始まる 炎と森のカーニバルミイラ男も踊ってる今宵、僕が招かれたカーニバル

<巨大な樹が支配する、会場の名は”ツリーランド”>、果たしてこれがファンタジーなのか!これのどこが独創的なのか!
樹のある土地を、ツリーランドと呼ぶなんてファンタジーとして0点以外の評価を与えることが出来ない。繰り返しになるが、とにかく安直なのだ。

有名な話だが、トールキンの『指輪物語』は、物語を創作するにあたってファンタジーの世界での言語まで作った。世界観を読者に提示するには、その世界へのリアリティを抱かせるような理論や、理屈が必要なのだ。深瀬慧にはファンタジーへの愛や、イマジネーションへの愛が全く見て取ることが出来ない。

『炎と森のカーニバル』の特徴は、ファンタジー世界を補強するために様々なファンタジックなキャラクターが登場する。
<ミイラ男も踊ってる>、<悪魔のDJ>、<月のカクテル>、<シンデレラも歌ってる>といったように。
しかし、どれもただ一言出てきては、すぐに退場する。踏み込んだ描写が欠けているのだ。
存在しないキャラクターをどれだけ存在しているかのように信じこませるという本来的なファンタジーの機能はSEKAI NO OWARIからは排除され、ただ「ファンタジーっぽさ」を強調するためだけに記号としてこれらは用いられている。SEKAI NO OWARIの言う<幻想的な世界>に奥行きはない。ただ表層だけが取り繕うように粗暴に置かれているだけにすぎない。

SEKAI NO OWARIは佐村河内守である




 SEKAI NO OWARIは独創的な世界を描いている、という通俗的なイメージは完全に誤っている。彼らの詩は、ただ“ファンタジー”という記号だけが並べられているだけで、“ファンタジック”ではない。全身をプラダで固めた、生活保護受給者のような詩なのだ。
だが、実際にある人々らには彼らはプラダを着込んでいるように見える、ここにこそ僕は面白みを感じる。

電話帳にも劣る文学性のない詩に意味を見出させるのは、彼らのセルフブランディングが成す業である。深瀬慧には、様々な逸話があるADHDだとか、精神病院に入院してただとか。これも詩と同様にチープで、取ってつけたようにしか見えないものの、それをファンが「設定」として認めて詩を解釈している。もはや、SEKAI NO OWARIという存在はアーティストではなく、キャラクターとして消費されているのである。現実的身体性を追放するようなユニフォームを彼らが着たのは偶然ではなく、自らキャラクターに徹することを選択した証である。

いわばSEKAI NO OWARIとはJポップ界の佐村河内守なのだ。限りなく無に近い才能を、コンテクストというレンズを用いて巨大な虚像を作り出したのだ。

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