アドセンス2

2014年3月15日土曜日

【評/感想】『ダラス・バイヤーズクラブ』保守とリベラルとカウボーイ


テキサス州といえば誰もがカウボーイを思い出すように、今でも建国当時の思想を色濃く残したアメリカでもっとも保守的な州の一つだ。
私も昔2週間ほどホームステイをしたことがあるが、いい意味でも、悪い意味でも「古き良きアメリカ」という形容詞がピッタリな州だ。

そんな州の男たちは、いわゆるマッチョイズム的な哲学を持ち合わせている。ロデオとギャンブルを愛し 、パツキン&ボインのプレイガールを夢見ながら、ウイスキーを流し込む。ある意味で潔い男気ではあるが、反面それは差別的な一面を表すこともしばしばある。

その最たるものが同性愛者差別だ。GayFaggotと言った単語は、頻繁に使われるスラングだが、その意味の根底は他でもなく差別的な意味に満ちている。

『ダラス・バイヤーズクラブ』の主人公ロン・ウッドルーフ(マシュー・マコノヒー)も、マッチョイズムの持ち主の一人だ。それも、町中でナヨナヨした男が入れば見境なしにガンをつけるほどの、いわば同性愛差別原理主義者と言ってもいいほどだ。

そんな彼はある日の仕事中に気を失って病院に搬送される。そして、昏睡から覚めたロンは出し抜けに、HIVポジティブだということを医者に宣告されてしまうのだ。

この映画は同名のロン・ウッドルーフの実はをベースに書かれた映画で、これらの出来事は1985年からが舞台だ。今ほどHIVの研究が進んでいなかった当時の状況の中では「HIVポジティブ=ホモセックス」をしたという烙印に他ならなかった。

彼は一日にして、差別をしていた側から、差別をされる側に転落してしまったのだ。
同じくマッチョの親友たちは、ロンの言い分を聞こうとすらせずに、「オレに触るな!ホモ野郎!」といった具合に心ない言葉を浴びせかけるのだった。

余命30日と医師に宣告をされたロンは、生きるために様々な未承認薬を試すものの、その一つAZTには重い副作用が存在していた。ロンはある医師からその副作用の実態を克明に教わり、次第に同時代を代表するほどのHIVの知識を身につける程となるのだった。

不完全で患者に悪影響を及ぼすAZTが、製薬会社とFDA(日本でいう厚労省)の癒着によって認可されることとなった。

ロンはそこに新たな需要を見出し、安全で副作用のない未承認薬の密輸で商売を始める。

やはりなんといっても、第86回アカデミー賞主演男優賞を獲得したマシュー・マコノヒーの演技が光る。『マジック・マイク』で男ですら惚れぼれするほどの肉体美を惜しげなく見せていたマシュー・マコノヒーが、最大21キロの減量をして本作の撮影に挑んだ。
肋骨が浮かび、骸骨のような足となったその身体は、この映画の説得力を担保する。

繰り返し保守という言葉を使ったが、それは本来「自由の国」を支える言葉だ。
だが実際には個人の自由にすぎない同性愛を差別し、個人の自由であるべき薬の選択、医療の選択に制約が掛けられている。

今まで漠然と信奉していた「自由の国・アメリカ」という存在の歪みや矛盾にぶつかり、ロンが本来的であり、よりラディカルな自由・リバタリアニズムへと移行し、歪められた自由と闘う様をカウボーイとして描く妙に心を打たれた。


2014年3月9日日曜日

【評/感想】『それでも夜は明ける』 「あなたは今日からモノだ」最悪のディストピア・プランテーション



「黒人を人間と考えることは不可能である。なぜなら、そうすると我々がキリスト教徒でなくなるからだ」

この言葉は、三権分立論で知られるフランスの哲学者モンテスキューが『法の精神』の中で記した一文だ。
宗教移民によって建国されながら、それらは黒人とネイティブアメリカンの大量の犠牲に成り立つという二律背反的構造に無理やり整合性をつけ、神の御心に沿う形にするために、アメリカ合衆国の白人達はこのレトリックを多いに用いていた。

86回アカデミー賞作品賞、助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)、脚色賞の三部門を獲得した『それでも夜は明ける (12 YEARS A SLAVE)』は、それまで人間として扱われた男が、ある日を境に物として扱われてしまう恐るべき悲劇を描いた映画だ。

時は1841黒人奴隷が解放されることとなる憲法修正第13条成立の14年前アメリカ南部は黒人奴隷を酷使し綿花とサトウキビの巨大プランテーションを経営し、白人は貴族のような生活を送っていた。(ex.風と共に去りぬ)

一方、北部は産業革命の恩恵をいち早く受けて工場が数々と建設され、黒人奴隷を必要としない経済システムがあった。北部の白人の間には、黒人奴隷解放の機運が広く流涎していた。それどころか南部の人間の行動は、アメリカ憲法の根本にある万民平等の思想に反するものとして嫌悪感すら抱いていた。(もっとも、北部の白人が黒人に対して差別意識がなかった一因に、そもそも黒人居住者が人口の3%しかなかったこともあったのだが)

この映画の主人公ソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は北部に住み、バイオリニストとして生計をたて、二人の子供にも恵まれた幸せな生活を送っていた。白人と全く同じヴィクトリア朝的なオシャレな洋服を着て、優雅な振る舞いをしている姿は多くの観客にとって新鮮に映るだろう。

サーカスの興行主はソロモンを一流の奏者と見込んで、劇団にスカウトし、彼は一緒に公演を巡業することとなった。しかし、それは罠だった。

ワシントンでの公演後の打ち上げで何本ものワインを平らげて酔っ払ったソロモンは翌朝汚い小屋で目を覚ます。それまで自由人だったソロモンは、拉致され、名前を変えられ、奴隷となってしまったのだ。

1786年にアフリカからの奴隷輸入は、秩序を乱すことを理由に禁止されていた。しかし、プランテーションを維持するのに不可欠だった黒人奴隷は高値で売買されていたのだ。

ソロモンは現在の価値で500万円ほどの価格で売買され南部のプランテーションの移送された。

それからは息が詰まる描写が連続する。終わることのない重労働と、何かが起こればムチ打ち。
特にこの映画は、ムチ打ちや、その他の暴力シーンをこれでもかという長回しで見せる。

特に、首を縄でくくられ辛うじて爪先だけがつくギリギリの状態をさせられる拷問は印象的だ。今にも死にそうなソロモンとのどかなコットンフィールドをロング・ショットで捉え、画面の奥では子供達が無邪気に戯れているのだ。ここまで残酷な拷問が、この時代においてはありふれた日常風景だった事を思い知らされる。

ソロモンという名前を奪われプラットと呼ばれる事となったが、彼は生き残り再び家族と再会することを夢見ていた。なんとかして、手紙を送り救援を求めようともしていた。
だが、その策謀も失敗し、度重なる拷問の末彼の精神は衰弱気味になっていった。

そんな中、奴隷仲間が死んだ。仲間は埋葬をし、Roll Jordan Rollという葬送曲を歌う。当初ソロモンはその中に混ざろうとはせず、口をつぐんだままでいた。しかし、歌のフックが連続される所でついにソロモンは重そうに口を開き歌に加わるのだった。


居心地悪そうな表情を、長回しで捉え、ついに口をあけた瞬間は一種のカタルシスすら感じたが、このシーンはこの映画最大の悲しいシーンでもあると私は思うのだ。

農作業中他の奴隷たちは、プランテーションソング(日本で言う炭坑節)を歌っていたが、ソロモンだけは頑なに加わろうとはしなかった。一方で、彼は農園主からバイオリンを貰い、しばしば白人的な音楽に興じていた。

Roll Jordan Rollを歌うということはソロモンにとっては、黒人としての生を受け入れることを意味していたのだ。実際に、彼はそのすぐの場面でバイオリンを壊して捨ててしまうのだ
この点をもって、映画の宣伝文句「あきらめない」は大いに間違いだと私は思う。

そもそも、諦めなかったなら全ての奴隷が救われただろうか。あるいは、ソロモンだけが、諦めなかった人間だったのだろうか。もちろん答えは、どちらもノーだ。

むしろ、この作品の本当の良さは希望ですら変えられないシステムの悪を描いている点だ。
人を人だと認めない社会を変えるのは、諦めない気持ちではなく、普遍的な人間の尊厳の回復なのだ。

ブラッド・ピット演じる旅人のバスはジョン・ロック的自然権論者だ。黒人奴隷の惨状に憐れみを感じ農園主に真っ向から批判を浴びせる。「全ての人間は平等にその尊厳を有している」「神から見たら白人と黒人など取るに足らない差だ」「あなたが明日から突然動物と扱われたらどうする?」といったように。

どんな教科書や政治学の本よりも力強く、基本的人権の大切さを我々はそこに見るのだ。

そしてこの映画は単に白人による黒人の差別を描いた映画ではない。差別にも満たない、人を人として扱わないシステムの糾弾が目的なのだ。
貧しい白人が、プランテーションで黒人と共に働かされたり、逆に富を築いた黒人が同胞の黒人を奴隷として使用したりする場面もこの映画では登場する。

どんな人間であっても、人では居られなくなるそんなシステムを攻撃しているのだ


日本の総理大臣安倍晋三は、「緊急時に基本的人権を停止する」ことを憲法に織り込む方針を打ち立てた。それが意味することをこの映画を見て考えてもらいたい。