アドセンス2

2014年1月15日水曜日

【評/感想】『トウキョウソナタ』それはポストモダンホラー


ホラー映画の定義は「観客に恐怖を与える映画」だという。これに従うなら、トウキョウソナタは現代最恐のホラー映画だ。そして、それは誰にでも起こりうるホラーだ。いや、すでにあなたは巻き込まれてしまっている。

タニタの総務をしていた香川照之はリストラされてしまう。しかし、なかなか家族には言えないまま、ハローワークに通い、炊き出しの食事を貰い一日、一日をやり過ごす。息子は息子で、母は母で問題を抱えている。そして、ついに一家は崩壊を迎える。

ジェイソンやフレディといったモンスター的なホラーアイコンは今では完全に衰退し、もはや彼らはコミカルな存在になっている。
現実の複雑化した恐怖の深淵は、一元的に偶像化されたキャラクターに象徴しえないために、彼らは死んだのだ。
黒沢清は本作で偶像化できない時代の恐怖を描く。いわばポストモダンホラーだ。

その意図は最初のシーンから明示されている。部屋の中においてある新聞や雑誌が、窓からの風にたなびいて見える。しかし、よく見てみると紙は風の方向とは関係なく動いているのだ。不可解な力が日常に潜んでいるのだ。
それはまさしく「空気」と呼ばれるような現代を支配する幽霊なのだ。

我々は、一種のパラダイムによって人生を勝手に規程づけてしまう。
職業に貴賤無しと口では言うがそれは建前だったりするように。まさにこの映画の主人公はその通りだ。
会社をクビになったら、もちろん一時的には困る。しかし、本当はたかが会社をクビになったくらいにすぎないのだ。新しい仕事を探せば良い。しかし、仕事にこだわりを見せてしまう。清掃はいやだ、警備員は嫌だといった感じに。

映画のラストはヘビーな物語を包容するかのように、やさしく月の光が演奏される。
それまで価値を見出さなかったものに心を救われる瞬間、パラダイムがシフトする瞬間がそこにはある。

しずかに、優美なシーンに強烈な逆転が起きている。見事の一言しか出ない。

2014年1月12日日曜日

【評/感想】『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ』ヴァンパイアとはジャームッシュ自身だ


いかにもなジャームッシュ映画でありながら、かつ今までのどのジャームッシュ映画よりもキャッチーだ。
極度にファンタジックな「吸血鬼」という題材を取り入れた『Only Lovers Left Alive』は、ジャームッシュの持つ孤高さ、ユーモラスさと融合する事により奇跡としか言い様のない美しさを放っている。

本作は『コーヒー&シガレッツ』、『ブロークンフラワーズ』で知られる鬼才ジム・ジャームッシュ監督の最新作。マイティーソーのロキ役で知られるトム・ヒドルストン演じるアダムと、ナルニア国物語の白の女王を演じジャームッシュ作品でもおなじみとなっているティルダ・スウィントン演じるイブという、二人のヴァンパイアによるラブストーリーだ。
日の光を浴びてはならないバンパイアのアダムは、部屋の閉じこもり数々のヴィンテージ楽器で来る日も作曲に明け暮れる。彼らの年齢は定かではない。今はデトロイトでロックに興じる彼だが、モーツァルトの弦楽五重奏曲第一番は彼が作曲したものであるとか。
一方のイブは、モロッコのタンジールで文学を楽しみながら友人「クリストファー・マーロウ」と暮らしている。遠く離れた恋人たちは、スカイプで会話をし寂しさを癒し合う。ヴァンパイアも近代化とは無縁ではないのだ。
21世紀の現代、ヴァンパイアですら吸血はリスキーすぎるため病院の血清を賄賂で買ったり、裏ルートで手に入れたりしている。しかし、人間の間で広がる血液汚染はヴァンパイアの食生活を危機に瀕することとなっているのだ。

ある時イブはデトロイトにやってくる。二人は、二人の時間を過ごす。恍惚な表情を浮かべグラスに入った血を飲み交わしたり、夜の荒廃した町をドライブしたり、ヴァンパイアギャグを飛ばし合ったり。いつものジャームッシュ的会話と異質なキャラクターのマッチングが我々を独自の世界観へトリップさせる。そう、これは血を巡るドラッグムービー的側面も持っている。
しかし、二人の楽園はイブの妹エヴァの登場により唐突に破壊されてしまうのだった...

この物語の根幹は間違いなくジャームッシュ自身だ。今まで頑に、35ミリのフィルム撮影にこだわり続けたが、彼は本作でデジタル撮影に移行した。時代遅れのヴァンパイアとはまさしく彼自身の投影なのだ。
しかし、それでも自分のスタイルをどうにか残すことを画策する。それらが。アナログなミキサー卓やヴィンテージギターの数々、ほとんどの聴衆には理解されないような映画や文学からの引用に現れる。彼の人生で得た全てのフェティッシュをフィルムに焼き付けようとしているのだ。そして、胃もたれするような過剰さを語り手をヴァンパイアとすることにより回避し、それどころか魅力を強化している。

ヴァンパイアを主人公に選んだのは、ただそれだけの理由ではない。この作品でのヴァンパイアとは芸術の象徴でもある。それを紐解く糸口は「クリストファー・マーロウ」にある。彼は、シェイクスピアと同時代を生きた詩人だ。シェイクスピアはマーロウの作品を剽窃した事となっている。アダムたちは、このような芸術家を食い物にする人らをゾンビと呼ぶ。より正確に言えば、マーロウの作品群から読み解くに、それは人間の七大罪(フォースタス博士)や、金銭欲(マルタ島のユダヤ人)を意味するはずだ。
「ゾンビがそこらかしこにいる」とアダムは嘆く。これは映画業界の商業主義を嘆くジャームッシュ自身の声に違いない。しかし、そんなゾンビらの血をすすらない限りヴァンパイアは活動できないのだ。
この作品の制作過程での、資金難はまさに良い例だろう。

映画は後半舞台がデトロイトから、タンジールへ映る。人気は全くなく死んだ街のデトロイトと、活気に溢れたタンジールは対称的だ。とりたてアメリカのライブハウスでマンネリなロックを聞いているときは早く帰りたそうな表情を浮かべていたアダムが、タンジールでニューエイジライクな女性アーティストの歌を聞き表情を緩ませているシーンが印象的に残った。

今までアメリカを描く事にこだわったジャームッシュが、アメリカに対する一種の絶望を表明したシーンでもあろう。