アドセンス2

2014年2月4日火曜日

【評/感想】『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ただのペンを53万円で売りつける社会



「このただのペンを53万円で売ってみてください」
就職活動の面接や、グループディスカッションで流行りの質問だ。せいぜい100円のペンに架空の付加価値をつけて高値で売る現代の資本主義の狂気性を、マーティン・スコセッシはコカインとセックスが醸し出す狂乱と共に彼のフィルモグラフィー最高のハイテンションで描いた。

まず「ウォールストリート」という単語が持つハイソでインテリジェンスな雰囲気など一切ない。日本人にとってわかりやすい言い方をするなら「ヒルズ族のプライベート」がメインのストーリーだ。社内で乱交、別荘で乱交、クルーザーで乱交、飛行機で乱交。当然、常にドラッグはキメている。そんな様子が3時間続くと言っても過言ではない。
スコセッシ映画で例えるならば『グッドフェローズ』のラスト30分のテンションを、映画の頭からケツの穴まで貫いたような作品だ。

こんなぶっ飛んだ内容、実はジョーダン・ベルフォートの自伝『ウォール街狂乱日記 - 「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生』を元にしているというから驚きである。

レオナルド・ディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートはクイーンズで育ち、生物学の大学に通っていたが「君がもしお金を稼ぐことを第一に考えているならば、ここは間違った場所だ」という言葉に背中押され中退し、LFロスチャイルド証券に入社し株ブローカー(仲買人)のキャリアをスタートする。

その後独立し証券会社ストラットン・オークモント創設する。 「メイフラワー号の末裔が設立したウォールストリートの老舗っぽくない!?」という理由で、この名前となった。日本で言えば、株式会社○○インターナショナルのような感じだ。
この会社は何をするかというと、怪しげなゴミ株(ペニースタック)を電話で客に押し売る。ちなみにこのような商法を英語ではボイラールームと言うのだが、その由来はベン・ヤンガー監督による同名映画”Boiler  Room”(邦題マネー・ゲーム 株価大暴落 )から来ている。

1990年に設立されたストラットン・オークモント社は破竹の勢いで成長し、一時は総社員数が1000人を超えたという。しかし、98年に証券詐欺とマネーロンダリングによりジョーダン・ベルフォートは逮捕された。被害総額は200億円を超すそうだ。

詐欺行為により多くの人の人生を狂わせたジョーダン・ベルフォートは、果たしてどれだけの刑を言い渡させたか。たったの、22ヶ月間の懲役だ。仲間の犯罪を証言したとは言っても、彼の犯した罪と釣り合いのとれたものではないことは明らかである。

彼は現在アントレプレナーシップセミナー(与沢翼などが行っている胡散臭いセミナーと似たようなものだ)を行ったり、本を書いて再びセレブの仲間入りをしている。

この映画は倫理を欠いた『グッドフェローズ』なのだ。ジョーダンは強烈なまでの社会に対しての承認欲求を持っている。しかし、彼は社会に参加する方法を全く知らないのだ。映画冒頭の「お金は何でも叶えてくれる。女も買えるし、慈善事業に寄付すればいい人にだってなれる」という言葉はそれを象徴している。

スコセッシは、病んでいる人間が社会と折り合いをつけるために奮闘するということをメインテーマの一つとして描いてきた。しかし、『ウルフ・オブ・ウォールスト』は金銭へ病的な執着を持つジョーダンがそのまま受け入れられ、さらに神格化されているのだ。

そんな病気の流行を、スコセッシはChest Songによって不気味さをビジュアル化させた。



ディカプリオが「このペンを俺に売ってみろ」と、セミナーで受講者に問いかけて終わる。『ウルフ・オブ・ウォールスト』はまさしく今現在もどこかで行われ、さらには拡大再生産の途上にあるのだ。

虚偽の価値で満たし、人の金を騙しとっても胸を痛めることのない現代の資本主義を、あなたはどう思うか。


2014年2月2日日曜日

【評/感想】『抱きしめたい 真実の物語』脱・純愛とゼロ年代への批評性 映画ファンにこそ薦めたい!



ゼロ年代の純愛映画のフォーマットをそのままに、その上主演が純愛映画の(悪しき)金字塔『1リットルの涙』の主演を務めた錦戸亮。そして、極めつけに監督は『黄泉がえり』の塩田明彦で制作されたのが、『抱きしめたい 真実の物語』だ。

タイトルのセンスの無さも相まって年始から2014年の「この映画はいったい誰が観に行くんだ!?大賞」の筆頭候補だと私は思っていた。
白状すれば、『抱きしめたい 真実の物語』を粗さがししてブログに晒し上げようと思いながら私は映画館に向かった。しかし、私の浅はかな思惑は完全に拒まれた。
少なくともテレビ局が主導する映画の中ではダントツに面白いし、昨年のキネマ旬報大賞の『ペコロスの母に会いに行く』と比較しても遜色のない作品だと胸を張って言おう。

「純愛映画」と言う言葉は、陳腐なストーリーかつ、感動を煽る記号的な演出の応酬が行われる映画のジャンルを遠回しに意味するものとなって久しい。監督は「人の不幸をこれみよがしなお涙頂戴話に仕上げて、観客の皆さんに心地よく涙を流してもらって終わり、みたいな映画にはしない」と宣言し、一見この映画も純愛映画と同じフォーマットに則っていると思われるものの、(実話ではあるが)プロット段階でいわゆる純愛映画から遠のこうという努力がある。
それは北川景子演じるツカサは死につつある存在でも、悲劇のヒロインでも無い点だ。

ツカサは交通事故で左半身が麻痺し、若干の記憶障害はあるものの命の危険からは遠のいている。もっとも彼女は映画の最後に死ぬものの、それは「急性妊娠性脂肪肝」による。これらによって、死に一直線で向かっていくジェットコースター的悲劇から脱却し、障害を乗り越えた先に待つ悲劇としてより重いものの、映画としては中だるみの少ないものになっている。

だからこそ、二人の恋愛はとても凡庸なものだ。ツカサが車いすに乗っている必然性も無いように観客はきっと感じる。しかし、障害に触れないということが逆説的に見えないし、表明しないが深い愛を感じさせるものとなっている。そしてこの姿勢はその他の部分でも一貫して貫かれている。

それを象徴しているのは上地雄輔だ。マサミ(錦戸亮)のタクシー会社の先輩として登場するが、愛を大っぴらに語る彼を映画は明らかに軽い人間として描いている。スピードラーニングを買ってしまったり、「北海道は寒いからハワイでタクシーをやるわ」なんていったり。
馬鹿だけど、いいやつという上地雄輔のキャラクターを更に、ここでは感情をすべて言葉で説明する“ゼロ年代映画の批評的レイヤーが重なっているのだ。

また、この映画は意識的に純愛映画的なウェットさに向かないことを目指している。シリアスなシーンの後に、中和どころではなく深刻さを一切忘れさせてしまうようなエッジィなギャグが挿入されるのだ。中でも元カノにハイネケンの瓶で殴られる錦戸亮は近年稀に見る面白さと衝撃なので、是非このシーンだけでも確認してもらいたい。

それだけではない。この映画はシリアスなシーンすらギャグ化する。障害を持った女と結婚することをマサミの父親、國村隼は快く思わず二人は喧嘩してしまう。しかし、そのシーンがアウトレイジを模倣した形で行われるのだ。一見可笑しさに溢れながら、根幹のメッセージはただのシリアスさだけでは到底たどり着けない形で我々に届く。

もっとも、ギャグ化を可能にしながらドラマとして成立させているのはシリアスさの演出も成功しているからに他ならない。
マサミはツカサの母親・風吹ジュンから、障害を持った子と添い遂げる覚悟があるのかを問われ、ツカサの事故当時の映像を観るように言われた。
カメラは、テレビに映るDVD映像を写すのだがツカサのリハビリの様子は圧巻だ。北川景子は耄碌し、叫びまくり、ヨダレもダラダラ垂らしまくる。手持ちのビデオカメラで撮られたという設定もあり、そんなシーンが2分近くつづく。長回しの効果と、演技の迫真性が相まってこれ以上ない存在感を北川景子演じるツカサは手に入れるのだ。


『抱きしめたい』は丁寧なドラマ作りをし、だが陳腐にならないギリギリなラインでキレキレなギャグを挿入し独自なテイストを醸し出し、かつ全編がゼロ年代への批評として機能している。『アメリカン・ハッスル』や『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』など話題作が目白押しの2月初週に埋もれてしまいそうな一本を是非チェックしてみてほしい。