アドセンス2

2014年8月7日木曜日

【評/感想】『るろうに剣心 京都大火編』 戦後日本のメタファーとしての緋村剣心、ナショナリズムの快楽


緋村剣心は戦後日本のメタファーである



『るろうに剣心』は未だ正当に評価されていない。累計部数5000万冊、前作の興行成績は30億円。それらの経済的な数値も『るろうに剣心』という作品の評価には過小すぎる。

主人公・緋村剣心とは何者か? この問こそが、『るろうに剣心』の本質を明らかにする。

人斬りという忌まわしい過去を持ちつつも、全ての過去を捨て去ったようにヤサ男として振る舞いつつ、いざという時には斬れない刀逆刃刀で時代最強の剣客を演じる。

緋村剣心とは、戦後日本のメタファーそのものなのだ。

自らに誓った「不殺(ころさず)」という戒律は、憲法9条体制を反映しつつも、本気をだせばどの国にも負けないのではという、日本に対する理想と現実の両面を表している。
さらに、剣心の中性的なルックスは、父権が失墜し、邪馬台国の卑弥呼的な古来女帝政が皇太子妃・愛子によって現実のものになりつつある日本の国体を奇しくも描いているのだ。

意識的にも、無意識的にも日本人の心理をそのままに反映するキャラクターが、明治維新後という第二次世界大戦のサンフランシスコ体制と酷似する平和の時代に、どのように防衛を行うのか、どのように平和を維持するのか、という闘いが『るろうに剣心』の深層にあるメッセージであり、好評を博す深部にある理由なのだ。

週刊少年ジャンプが原作だからだろうか、あるいはあまりに批評家に蔑ろにされているからだろうか。『るろうに剣心』は不当に軽んじられているものの、この作品はアメリカ人にとっての『キャプテン・アメリカ』や『アイアンマン』のように国民の感情を生々しく反映した、純日本製の英雄だと私は考える。

映画に選ばれた男・佐藤健




大友啓史監督による本作は、邦画唯一のコミック実写化の成功作と言っていいだろう。凝りに凝った美術背景、原作と映画という異種に調和の取れた脚本、そして何より俳優自らによるキレッキレのアクション。これこそが、『るろうに剣心』という作品に血を通わせる。

言うまでもなく、その立役者は主演の佐藤健だ。彼が緋村剣心という複雑な役に選ばれた第一の理由は他でもない、彼の運動神経だ。
メイキング映像で監督自らが語るように、佐藤健は常人離れしたアクション俳優としての才能がある。
動きのキレはかつてのブルース・リーを髣髴させるようなスピードをもち、ワイヤーアクションと見まごうような超人的な跳躍力が殺陣にかつてないダイナミックさを与えている。

さらに、素晴らしいアクションに迫真さを与える佐藤健の顔そのものが素晴らしい。誰もが羨むフェミニンな顔立ちでありつつも、じっと見続けると不気味な老け具合が現れる。
また、最近のゴシップによれば、前田敦子や、広末涼子と浮き名を流しているという。この芸能界の2トップを食った事による貫禄と、頂点に立つものの孤独感というのが演技という演技で現れる。
実写化第一作目以上に、緋村剣心の最強という肩書に迫真さを帯びている。


藤原竜也の藤原竜也性




前作もほとんどストーリーは改変しなかったように、「京都大火編」もほぼ原作通りのストーリーで、大久保利通暗殺から始まり、難破した剣心が比古清十郎(福山雅治)に拾われる所で終わる。見せ場という見せ場の多くは後編「伝説の最期編」に持ち越しになっている。

代わりと言ってはなんだが、この映画では最強のライバル志々雄真実は、敏腕指導者として別種のカリスマ性を獲得した。

志々雄を演じる藤原竜也は、演技自体は認められつつも、誰を演じても同じだという批判を受けているのはご存知の所だろう。独自の雰囲気を醸し出せる事こそ、俳優の重要な要素であると思いつつも、私もその意見に賛成だった。
だが、志々雄真実という役は、藤原竜也の藤原竜也性を逆手に取った彼随一の名演と言っても過言ではない。

誰が聞いてきても直ぐに分かるユニークなしゃがれた声を逆手に取り、彼にミイラ男のようなマスクを被せたのだ。どれだけ覆い隠そうとも、隠れきれないような個性がカリスマ性に直接結びついているのだ。包帯でぐるぐる巻にされていながら、観客はそこに藤原竜也の表情を見る。

楽しみにしながら映画館に行き、楽しかったと満足しながら映画館を出る。とても当たり前なサイクルなのだが、ここ数年の腐りきった邦画では、その当たり前のことすら出来なかった。
しかし、大友啓史による『るろうに剣心』は、期待と同じものを、スクリーンで見せてくれた。当たり前のことであるけれど、そのことが嬉しくてたまらなかった。

現代の日本をメタファーにした映画で、現代の日本も捨てたもんじゃないと思わせる。語らずともパフォーマンスで魅せる姿勢、これこそが映画の本質的な作用であり、快感なのだ。

維新後の侍と同じように、『るろうに剣心』の映画こそが、邦画界のラストサムライである。