アドセンス2

2013年11月2日土曜日

評/感想 【魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語】 虚淵玄はクリーニングした風呂敷で、ケツを拭いた 


2011年のテレビアニメの「魔法少女まどか☆マギカ」(以下まどマギ)が2作の総集編を経て、遂に完全新作の劇場版を公開ということで巷では大ブームになっている。
公開から一週間が経つ11/1に鑑賞してきたが、全席埋まっているといて、大変な人気を伺いしれた。

アニメファンの為の作品だけあって、当然前作の予習と復習は必須なつくりになっている。完全に一見さんお断り状態なのでブームに乗っかりたいというだけでいくのは意味不明な2時間を過ごすことになるので注意が必要である。

さて、本題の批評に移りたい。結論から言えば駄作である。クリーニングにだし、丁寧にアイロンを掛けた風呂敷で下痢便を拭くような映画だ。
理由はとても簡単である。この作品にはドラマが完全に欠落しているのだ。

デレビ版まどマギは先鋭的な映像、見事な演出、そしてなにより「少女まどかが承認されている日常を賭してでも、世界を救おう」という選択のドラマ性が評価された。この物語の構造は、アニメ史的に観てもセカイ系の超克を意味するというエポックメイキングな作品だった。

対して劇場版まどマギは誰も選択を行わない。ただの人形遊びでしかない。

本作の主人公はまどかから、ほむらへとシフトしている。
以下ほむらに端折った形であらすじを観てみよう。

ほむらが、見滝原中学へと転校してくる所から映画は始まる。それはまるでテレビ版第一話のようなのだが、彼女自身はテレビ版全ての記憶を引き継いでいる。そのため円環の理となったまどか、魔女と化し殺されたさやか達が生存していることに疑問を抱き世界の秘密を解き明かそうとする。 
彼女は見滝原の外へ出てみようとするのだが、どのようにしても出られない。本物だと思っていた世界は、見滝原を完全に再現した魔女の結界だということをほむらは推測する。(この辺はビューティフルドリーマーっぽい)
推測から他の魔法少女の誰かが実際は魔女だという仮説を建て戦いを挑む。しかしその末に魔女の正体は自分自身である事を悟る。ほむらの実態はインキュベーターに捉えられ、魂を幽閉されたソウルジェムの中で円環の理であるまどかの能力を観察することによって感情相転移エンジンの設計を画策していたのだ。ほむらは憤慨し、自ら魔女となり魔法少女たちに殲滅されることによってその謀略を失敗させようとする。

魔法少女達の活躍によって、インキュベータの企ては失敗に終わる。実態のいる世界に戻り、ほむらのソウルジェムを浄化するためにアルティメットまどかが彼女に触れようとすると、ほむらはまどかの円環の理の一部を奪い取り、悪魔となるのだった。
以上があらすじだ。なんだかんだ言ってあらすじだけを観るととても面白そうに見える。というか、今私は書いていて「こんなに面白そうな映画だったか?」と自問してしまった。

しかし、実際にこの映画はこのような素晴らしい設定達を全く活かせていない。なぜならほむらが闘うということは、彼女にとっても、我々にとっても自明だからだ。

まどかの為にただただ戦い続けるというのは前作で大変な感動を産んだ彼女のいわゆる萌えポイントであり、キャラクターの設定としては確かに有用だ。しかし、作劇という観点において本作ではそれがそのまま悪い部分になっている。

何かのアクシデントが起きたならば彼女はすぐさま闘う。戦いへの葛藤が一切無いからだ。なのでドラマが産まれる余地がないのだ。それにより、物語としての盛り上げもできないし、どのような心情で闘っているかの感情移入が一切できないのだ。つまり、いくら素晴らしいアクションシーンが出てきても我々はそのアクションに燃えることができない。
そして次第にそれは闘わなければいけないという風に見えず、ただ闘わせるという役割のためだけに彼女に困難を背負わせているような作劇になり全体を陳腐化している。(不条理を極めようとしていたアニメが、予定調和に陥っている。なんという悲劇)

葛藤が一切無く、ただ一人で突っ走りドラマが産まれない本作では当然我々は萌えることが出来ない。ほむらが「愛よ」なんて言っても、なんの過程も踏まれていない故にそのメッセージは恐ろしく薄いのだ。最高の百合アニメでもあったのだが、劇場版は「汗臭いおっさんが無口な人形にペニスをすりつけている」ようなグロテスクな愛だ。

総括すれば、本作はドラマの欠如により、萌えも燃えもなくなった欠陥作品だ。

最後に私なりの解釈を付け加えたい。

少女を闘いを観測しエネルギーに変換するインキュベータというのは、少女の苦難に興奮する私たち自身を指している。度々画面に現れるQBの目はすなわち私たち自身の眼球だ。しかしインキュベータは映画のラスト、悪魔の使いへと身を落とし扱き使われることとなってしまう。それはマスターベーションにより、キャラクター達にたいして優越感を抱いていた私たちは実際は上手い様に彼女達の手玉にとられ、まんまと劇場へ足をはこび金を貢いでくた私たちの姿なのだ。


2013年10月30日水曜日

R100評 呪われた松本ブランド



「R100」松本人志監督、松本ブランドが出来たと自信
http://news.mynavi.jp/news/2013/09/25/060/

松本ブランドというのはあながち間違いではない。
公開前からネット界隈ではコケる、駄作というレッテルを貼り続けられ圧倒的不利な状態からの上映となった本作をとりまく状況は一種のブランドといって差し支えないはずだ。

22歳の私はごっつええ感じやビジュアルバムなどの松本人志全盛期とは無縁だし、ガキ使なども毎週欠かさずみるようなタイプでもないのでファンとも言えない人間である。そして、映画も一作も観ていない松本ブランド童貞だ。
そんな松本ビギナーが今回はR100を評論したい。

この映画に対して大きく分けて二つの感想を抱いた。
一つは、思っていた以上に松本人志の笑いは面白いということ。私は数回映画館で吹き出してしまった。
二つ目は、彼自身が最も松本ブランドに固執しているということ。そしてこれこそが、R100の最大の汚点のメタ視点を作り出している。


松本人志がR100で目指した笑いは以下のようなものだ。
キャストの演技について松本は「シリアスに演じてもらうことで、圧力釜の蒸気となって、笑いが勝手に噴き出る」と独特の表現。作品を彩る色合いがレトロだという評価に関しては「好きな世界が『昭和』のイメージ。怖さを画面から出せたらいい」と狙いを語った。http://natalie.mu/owarai/news/100038

これについてはかなり成功をしていたと考える。
予告編から感じていたことであるが、日常のなかに突如SM嬢が現れるというR100の構造は松本人志の一つの代名詞と言っていい「笑ってはいけないシリーズ」に非常に近い。
映画の前半は割と真面目に映画というフォーマットを意識した物語展開をおこない、それをプロの役者がシリアスに演じている。
シリアスの中に遺物が流入してきた時の映画的演技が見事に「日常に流入した非日常に対抗する日常の滑稽な姿」を写しだし、これは見事な笑いを作り出している。

その顕著なシーンは寿司屋だ。ライムスター宇田丸は評で「ビジュアルバム(http://www.nicovideo.jp/watch/sm14408199)の劣化コピー」と語っていたが、これは大きな間違いだ。確かに宇田丸の言う通りビジュアルバム版での寿司はそこにある狂気が笑いのポイントとなっていたが、本作でのポイントは「非日常の中の日常感」だ。現実により近いリアリティラインを設定したこともこのシーンでは有効に働いている。


とは言っても、今のような褒められるところは一部に留まる。全体としてみれば悪いシーンが多すぎるというか、映画の構造がそもそもの欠陥品だ。
あちらこちらで、触れられているがこの映画は「100歳の映画監督がつくった」というメタ視点を持っている。そしてメタ視点の中で先回りをしたように、観客が抱きそうな感想を映画関係者がツッコミを入れる。

これは最低な逃げだ。あらゆる作品の荒に対する批判を一挙に、自分のもとから遠ざけようとしているのである。
「誰も見たことのない作品」というのはあながち間違いではない。表現者が直接的に批判から遠ざかろうという最も愚劣な行為を私は見たことがないのだから。

結局のところ松本人志自身がもっとも松本ブランドを意識している。その結果鬼才松本という側面は完全に消滅し、自身のイメージの保身に全力を注ぐいびつな自意識だけが残っている。それは作中の100歳の映画監督ともっともかけ離れた存在だ。

「映画を壊す」前に松本ブランドを自ら壊さなければならない。