アドセンス2

2013年7月21日日曜日

「風立ちぬ」の感想 ー反原発映画としての失敗ー

いまさら説明の必要もない宮崎駿の新作、風たちぬを見てきました。
本当に良く出来た映画で、ジブリ作品でも上位にきっと入ると思います。(ナウシカが疑い用もなく一位なので、二位を本作と紅の豚、ラピュタが争っています。)

この映画は製作発表当時から3.11以降を描くといったり、生きねばというメッセージを打ち出したりしたなど、単に夏休み恒例のジブリ映画としてではなく、震災以降を日本のトップクリエイター宮崎駿がどのように語るのかと特別な意味合いを持つ作品です。
しかし、残念な事にそのコンテクストに照らし合わせるとすれば、必ずしも風たちぬを手放しで褒めることは出来ない重大な要素を作品内に抱えています。
マジ奈緒子ktkr、みたいなオタクトークは一端我慢して、手放しで賞賛されている本作に正当な批判を投げかけたいと思います。

3.11以降の映画として、反原発論者の宮崎駿の主張は、好意的に解釈しても異なる結論を導きかねない。
伝記なのでネタバレを惜しみなくするけれども、宮崎は主人公堀越二郎を単に飛行機の美しさ、優美さに魅了されているオタクとして描いている。戦闘機を作っているという意識は恐ろしく低く、あくまで自分のつくった物に軍が勝手に機関銃を取り付けていると考えている。夢の中で、ユンカースG38が爆撃する光景を見るなどはするものの、自らの飛行機が闘っている光景は一度も出てこなかった。
過酷な時代に強く生きろというメッセージが、人の生き死にを左右する事すら忘れる程没頭しろということなのか?

そして、今テクノロジーを描くということは即ち原発のメタファーとなる。おそらく宮崎駿自身もそれに関しては間違いなく自覚をしていただろう。テクノロジーに善悪はないというメッセージも宮崎らしくはないものの(ナウシカでは巨神兵を危険なオーバーテクノロジーと描いている)、そのテクノロジーを作り出すものの責任や、作り出した後の責任はやはり存在する。
堀越二郎に戦争の責任を負わせる事もまた違うけれども、ラストシーン、生きねばという一言で回収出来るものでは全くないはずだ。
それこそ作中で堀越が言ったように「問題はより広く、より深い」
さらに辛辣に言えば、人を殺す道具になることを無視していた者の生きねばという言葉は恐ろしく空虚なものになっているはずだろう。生の讃歌を訴えようと、生の重みが絶対的にかけてしまっている。

本作ははっきり言って子ども向けではない。いつもより対象年齢は10は上だと思う。
ならば中途半端にジブリ臭さを残すのではなくて、ジブリの枠を超えた人間ドラマを描くべきだったのではないだろうか。堀越二郎のキャラクターの造形はとてもいい。物語の設定もとてもいい。しかし、あくまで二つは独立していて、両者の良さが互いに不協和音を鳴らしてしまっているからこそ、宮崎駿本来の主張からほど遠い結論に至ってしまっている。

ここまで書いたけど、宮崎駿映画の結論が宙ぶらりんになりがちなのは今に始まった話ではないので、宮崎映画としては平常運転なので、いつも通り最高です。
騙されたと思って見に行ってください。
あと、選挙はいきましょう。

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