アドセンス2

2013年7月25日木曜日

国際政治史ー世界戦争の時代から21世紀へー②

第二章 第一次世界大戦後の国際体制

ロシア革命とウィルソンの14か条
「双方側からの帝国主義戦争」であるというWW1の本質をインターナショナルは見抜き、当初から反戦大会を開いていたが、戦争の開始とともに社会主義勢力はナショナリズムに飲まれ「祖国防衛」のために戦争に参加する。
しかし、戦争の長期化により厭戦気分と戦争目的への懐疑が広まり、反戦、反政府勢力は息を吹き返す。ロシア革命は情勢に大きなインパクトを与えた。

二月革命により帝政は崩壊したが、議会勢力と労農兵士ソヴィエトの二重権力状態となり、ロシア社会の問題は残されたままとなり、前線の厭戦気分はより高まっていた。
次第に力を強めた「ボリシェヴィキはすべての権力をソヴィエトに」という権力奪取の主張と、「無併合、無賠償の即時講話」を掲げ支持を獲得。後に武装蜂起し十月革命という形で権力を掌握。翌日「平和への布告」を発表、帝政ロシアの秘密条約の暴露を行い、連合国は戦争目的、講話原則の発表をせざるを得なくなった。

連合国の戦争目的表明の要請は、自国内の圧力から避けられない事となった。連合国は共同声明を試みるも利害が異なり調整は不可能ななか、ロイドジョージは、イギリスの隠された戦争目的は必死に獲得しようとしながら、反帝国主義、民主主義的な演説を行うと、フランスのクレマンソーは支持をした。
ウィルソンは秘密条約の禁止、航行の自由、経済障壁の除去を掲げる講話の原則の14か条を掲げた。平和原則ではあったが、植民地主義を否定するものではなかった。
連合国首脳はこれを講話の原則にすることに合意した。

大戦の終結とヴェルサイユ講和会議
WW1は総力戦だった。戦車、機関銃などの大量殺戮兵器の登場で両陣営合わせ1000万人の死傷者をだした。大戦の結果イギリス、フランスは領土の伸張を果たしたものの国力は衰退し、経済的にはアメリカの債権国へと身を落とした。ロシア革命の影響も大きく各地で労働者革命や、民族主義運動が起きる。
戦後処理には3つの要素が作用した。

  1. 戦争の帝国主義的性格
  2. 戦時中に発達した民主主義的、理想主義的性格
  3. ロシア革命と国際関係のあらたな要素としての革命対反革命の対抗

講和会議は1919年1月にヴェルサイユ宮殿にて開かれた。講話の前提としてロシア革命を始めとする革命への対処を問題とした。とりわけ、ロシアの代表権をだれに与えるかは差し迫った問題だった。旧帝政の将軍にソヴィエト政府を攻撃させるという企ても失敗し、連合国が対ソ干渉戦争を行う中講和会議は始まった。

一度は合意したウィルソンの14か条もそれぞれの利害により原則は形骸化し、会議は
帝国主義的取引の場となった。

ヴェルサイユ=ワシントン体制
ドイツ、オーストリア・ハンガリー、オスマンの3帝国は解体。民族自決の建前のもと小国家に分割される。ドイツは、ヨーロッパの領土をベルギー、フランス、ポーランドに割譲し、新たに定められた国境は21世紀まで引きずる民族問題、国境問題の火種となった。また海外植民地にかんする一切の権原は放棄させられた。
ドイツにとって最も過酷だったのは、ドイツにより仕掛けられたしいられた戦争として戦争責任をすべて負わされ、被った損失と損害の賠償金額は天文学的数字となり、財政的圧迫は大きかった。

敗戦国それぞれと結ばれた5つの条約の総称をヴェルサイユ体制と呼ぶ。「帝国主義的平和をウィルソン主義の白いヴェールで覆ったもの」と称される体制の特徴は以下の通りだ。
  1. 帝国主義的性格を反映し、戦勝国による敗戦国領土略奪と分割の体制だった。いっさいの植民地を奪われたドイツは「持たざる国」として現状打破の願望を抱き次の大戦の導火線となる。
  2. 革命の鎮圧と対ソ干渉戦争の継続のもとで成立したヴェルサイユ体制は、列強の神聖同盟という性格をもった。
  3. 講和会議には帝国主義と闘った植民地の民族主義勢力も参加したが、委任統治制度が用いられ、あくまで植民地体制の上に存在している
  4. 白いヴェールの側面として国際連盟が設立され、集団安全保障体制が立ち上げられたが、制裁手段を持たず、アメリカの不参加などで、1930年代には機能を失った

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