アドセンス2

2014年1月28日火曜日

【評/感想】『マーニー』ラブロマンス史上最低のヒロインとヒッチコック



<スクリーン・ビューティーズvol.3>ヒッチコックとブロンド・ビューティーで『マーニー』を見てきた。
新宿ピカデリーの4番スクリーンで公開中。特大スクリーンとは言えないが、クラシック映画を見る環境としてはこれ以上ない贅沢さです。

アルフレッド・ヒッチコックのフィルモグラフィーといえば『サイコ』や『鳥』などを真っ先に思い浮かべるかと思う。そのような作品は、映画をあまり見ない方でも耳覚えがあるはずだ。
一方で1964年に公開された『マーニー』は、ティッピ・ヘドレンとショーン・コネリーの共演作にも関わらずそのような作品群には劣る扱いを受けている。実際に、批評家は「マーニー以降のヒッチコックは凡庸な監督の一人となった」などの否定的な意見が数多く見られる。

『マーニー』の評価が低い理由は、プロットが過去のヒッチコックの作品の焼き直しの集まりのように出来ているからだ。以下の指摘はたしかに正しい。

『マーニー』は、ある意味で『めまい』の姉妹編と言ってもよいほど、その雰囲気には共通したものがある。その一つは、音楽用語でいえば「アダージョ・アフェットゥオーソ」とでも言いたくなるような情念のゆらめきであり、もう一つは全編を通して感じられるミステリアスな雰囲気である。 あらすじだけから見ると、1945年のヒッチコック映画『白い恐怖』に酷似している。 http://www.cembalo.com/topics/topics-fm03.htm

しかし、それらは『マーニー』の本質に肉薄することのない批判にすぎない。もし、あなたが大好きな女性をヒロインに映画を撮れることとなったら何を最も重要にするだろうか?
たいていの人は、どれだけ可愛くその人を撮影するか。あるいは、その人を痛めつけるか、エロいことをさせるか。そういったことを考えるはずだ。
ヒッチコックもそのような人間的欲求から例外ではないない。『マーニー』という映画は、ティッピ・ヘドレンを撮影するためだけに作られた映画と言っても過言ではない。

この事は昨年放送された『ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女』というテレビ映画をご覧になると分かるだろう。ヒッチコックはティッピ・ヘドレンにべた惚れしていたのだ。もともと、女優だった彼女に一目惚れをして自らの映画に出演させたのが名作『鳥』だった。撮影中ヒッチコックは彼女にセクハラを繰り返すが、モデルあがりだけあり慣れた対応で受け流したいた。しかし、そのクールな態度は逆にヒッチコックの彼女への妄執をより駆り立て、ヒッチコックはついには奥さんにまで見放されてしまうのだった。

そんな最中に撮影された『マーニー』は、彼の恋愛を色濃く反映している。この映画の中身を一言で言えば、「顔を好きになったら、どんな嫌なことでも受け入れられるよ。それどころじゃなく、ストーカーにもなっちゃうよ」という話だ。斉藤和義の「君の顔が好きだ」なんかは、すごく似ている。

マーニーはどう考えても魅力的な人間とは言えない。自己中心的で、恩を仇で返すのは日常茶飯事、嘘を嘘で固めて、さらにそれを嘘で再び固める。それだけではない、彼女は幾つもの刑事罰を犯している。

しかしそんなクソ最低なヒロインなヒロインにも関わらず、一種のラブロマンスとしてこの映画は成立している。そんな荒業を可能にできたのは、ヒッチコックの主観を通して擬似的に我々はティッピ・ヘドレンに恋をするからだ。そのとき彼女の人格の最低さは、彼女の美貌を際立たせるスパイスと化すのだ。

一般にティッピ・ヘドレンは演技のできない役者だという認識が強い。しかし、『マーニー』でのティッピ・ヘドレンの演技は冴えている。彼女は男性恐怖症の役で、言い寄られるが拒むというシーンが何度も出てくる。そう、実生活でヒッチコックに何度も仕返した対応をカメラの前でさせるのだ。ここは極めてリアルだ。男性なら「そんなに嫌がらないでよ」と切なくなることだ。


はっきり言ってこの映画はまともじゃない。映画の存在自体が倫理から外れていると言ってもいいかもしれない。しかし、そんな天才の常軌を逸した行動こそがこの映画の最大の魅力なのだ。

1 件のコメント:

  1. この映画面白いなーと思って、レビューを探していて、ここにたどり着きました。
    裏話を知ると、さらに楽しめますね。どうもありがとうございます。

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