アドセンス2

2014年1月31日金曜日

【評/感想】『オンリー・ゴッド』の世界一的確な解説


ニコラス・ウェディング・レフン監督の新作映画『オンリー・ゴッド』はいかに復讐を終わらせるかの物語だ。
息子を殺された母親クリスタル(クリスティン・スコット・トーマス)は皆殺しによって復讐の余地を消滅させることを選択する。一方で警察のチャン(ヴィタヤ・パンスリンガム)は、第三者的な正義を執行する(あるいは、しない)ことで争いを調停する。そして、二人の間に立つジュリアン(ライアン・ゴズリング)は単純な衝動と、超越的な正義の間で揺れ動く。

監督はこの映画の意図を「天国と地獄のはざまをさまよう人間たちの葛藤を描きたかった」と語っている。この映画での天国と地獄とは、明らかにチャンとクリスタルのことだ。監督は撮影前にヴィタヤに「あなたは神だ」と耳打ちをしたそうだし、本来の脚本には神であることが明示的にかかれていたそうだ。
クリスタルが地獄であることは明らかで、強烈な印象を与えたヒョウ柄の服は、まさしく人間的理性に対峙する動物を象徴している。

兄を殺した相手をジュリアンは一度赦したものの、母クリスタルはジュリアンに復讐を要求した。少なくとも誰よりも倫理的だったジュリアンの信条が、親という権力によって曲げられてしまうのだ。

ここに原題”Only God Forgives”「神のみが赦したもう」というテーマが浮き彫りとなる。母に復讐を命じられても彼は突き返すことができたし、復讐をしないことがなによりの正義だということは彼も理解していた。しかし、ジュリアンは自らの弱さのためにクリスタルに屈する。赦しは力が伴わければ履行し得ないのだ。そして誰もが不完全に産まれている以上完全な形での赦しは、完全な者たる神に独占されているのだ。

だが映画を見た時チャンは誰よりも冷酷で赦しから最もかけ離れた存在に思える。それは、彼の行為の「裁き」と「赦し」は重なっていることから生じている。そもそも、「裁き」と「赦し」はある行為に対して権力を執行<したか/しないか>の状態を指す言葉にすぎないのだが、映画でのチャンは常にどちらも用いているのだ。
さながら「罪を憎んで、人を憎まず」という具合に、チャンはある罪を犯した原因になる身体の一部を断つのだ。その上で、生きていることそれ自体が問題ならば、容赦なく命すら奪う。

純粋に欲求で行動するクリスタルも、赦すことと交換条件で身体の一部を差し出すという価値観は同じくする。ジュリアンは神話「オイディプス王」のような過去をもち、母親と身体的に交わり、父親を殺害した。その咎を赦すためにクリスタルは、ジュリアンを精神的に去勢させたのだった。


チャンとクリスタルの間で、ジュリアンは原罪を強く意識することとなる。事後的に赦すだけでは今目の前の悪に対してはなにもしないのと同義だ。正義を行使するためには、あるいは人を殺すことすら用いなければならないことを悟るのだった。
ジュリアンが母の子宮を切除したのは、自らの産まれてきたという罪の源を罰するためであり、一度は去勢された精神を取り戻した上で原罪をチャンに裁かれることを求めたからに違いないはずだ。



この映画は退屈な映画でも、ましてや暴力を楽しむ映画でもない。それらは全て一つの深遠なテーマへ接続されている。今回の私の文章も、稚拙で根幹に辿り着けはしなかった。
ただ、それでもどの評論よりも的を得て深いところに達せたという自己満足は感じている。

最後になるが、この映画は直接的にはエディプス・コンプレックスを引用し、また赦しの価値観にはデリダの論を参考にしているはずだ。以下の文章を是非一読してみてほしい。


赦しと赦しえないもの

http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/archives/pardon1.html

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