大脱出というタイトルに間違いはない。
しょっぱなからスタローンは、むきむきの筋肉を駆使して脱獄をする。その様子には、一切の戸惑いも、緊張も無い。まさに朝飯前というように、軽々とスマートに脱獄してしまう。それも魔法のようにだ。
そして、脱獄が終わった彼は自ら警察に捕まる。実はスタローンは、刑務所に収監され、設備の脱獄可能性を指摘するのを生業にする、民間警備会社から派遣された脱獄のプロだったのだ。
ここまでの、冒頭約20分の脱獄は掛け値無しにクールだ。
スタローンはCIAのエージェントから新たな依頼が舞い込む。その舞台は、非政府組織が運営する民間の監獄だ。非合法に重要人を捉え、非合法に収監される秘密の監獄のセキュリティの強固さを出資者に示す為に、スタローンは収監される。
彼が送られた監獄は、コンピュータ制御による監視、ガラス製のパノプティコン、監守は皆面を被る、異様で最新鋭の施設だった。スタローンは、そこでシュワルツェネッガーと出会い脱獄を進める...
脱獄というテーマは普遍的に受けるものの一つだ。青森学の『大脱出』評はこの点を上手くまとめている。
『監獄ものが何故受けるのかというと、それは監獄が抑圧された社会を象徴するからだ。監獄というのは人種・思想で差別されることなく犯罪者であれば平等に抑圧されるので、偏見を超えた紐帯が生まれやすい側面も有ると思う。その状況下で生まれる友情や自由を獲得するための戦い、連帯感が現実と違って自然に描ける点にある。監獄ものではベースとなるストーリーが社会の改変・糾弾なのでどうしてもリベラルテイストなストーリーになるのである。刑務所は一般社会をミニチュア化したもの、縮図と云える。』
以上の様に、脱獄映画は一種の普遍性を持つが故に、これまで様々な名作を生み出し、同時に駄作も量産された。そして、似たような監獄で、似たようなトリックで脱獄するという定式化を超えることが出来ず、現在ジャンルは死に体となっている。
その点、大脱出はテクノロジーとコンピュータに制御された監獄を設定し、ジャンルのカンフル剤になりえるかと思えた。また、ハイテク監獄とは現代社会を反映する批評性を持ち得る可能性を持っていた。だが、その試みは明らかに失敗している。
最初こそガラス製のパノプティコンに閉じ込められた物のシーンの多くはその房の外の、食堂であったり、懲罰房で行われる。そこは、申し訳程度に監視カメラがあるもの先の場所よりも明らかにテクノロジー化されていない。脱出も、こういったテクノロジーの行き届いていない場から行われるのだ。これらは結果的に、ハイテク化した現実の社会構造からの脱獄の不可能性を逆説的に強調する。最強の監獄の、最強さにこの映画は勝ってはいないのだ。
テーマを描けなかったという点で、大脱出は失敗作だと私は思うが、このような午後のロードショー的な映画を劇場で見れる機会は最近は中々無い。シュワルツェネッガーが巨大な機関銃を手に取り、スローで見栄を切るようなシーンは、どんなアクション映画とも異なる興奮を観客に与えるだろう。また俳優らの年齢を考えると、こんなベタなものをスクリーンで観られるのは本作が最後かもしれない。
(余談)
この映画の宣伝は酷すぎる。
場所の分からない監獄の正体を知る為に、一度外に出てみると、実は船の上だった。という映画きっての名場面があるのだが、広告ポスター、予告編ではっきりとネタバレしてしまっているのだ。
全編を通してベタな映画な中で唯一意外性を与えるシーンを言ってしまっては、観客は緊張感を持つことが出来ない。
スタローンが「ここはどこだ」と奔走するが、私はずっと「海の上だよ!」と心の中で叫び続けていた。
GAGAは、こんな最悪な広告を作ったことに猛省するべきだ。
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