「ドキュドラマ」という言葉を耳にしたことがあるだろうか?
「ドキュメンタリー」と「ドラマ」を掛けあわせた造語だ。未知の事実を、ドラマのように見られる形にした映像手法を言う。テレビ番組の「世界まる見え」などで見る再現ドラマに近い形式だ。
ダニス・タノビッチ監督の最新作『鉄くず拾いの物語』は、ボスニアで暮らすロマの家族を襲った悲劇を、彼ら自身に演じさせたドキュドラマだ。
ロマといえば、ヨーロッパに偏在する移動生活者=ノマドを真っ先に想像するだろう。映画で最も有名なロマは、何と言ってもガイ・リッチー監督の『スナッチ』でブラッド・ピットが演じたミッキー・オニールだが。彼らもトレーラーハウスで各地を転々としていた。
だが、実際にすべてのロマが移動生活をしているわけではない。優に300年以上定住して暮らすロマもいる。しかし彼らの内、国籍や医療保険の恩恵を受けているものは少ない。
『鉄くず拾いの物語』の主人公ナジフの家庭も、そのような定住者の一つだ。
ナジフは山に不法投棄された鉄くずを拾い、妻と二人の娘を養っている。だが、その生活は貧しく電気を止められてしまうような家計状況だ。そんなある日、彼の妻セナダは腹痛を訴える。ナジフは彼女を病院に連れて行くと、彼女の胎内の子が流産していることが判明した。このまま放置すれば、じきに敗血症に至り、最悪の場合は死ぬ可能性があることを告げられる。しかし、保険証を持たない場合の手術費は恐ろしく高く。彼らの生活レベルをはるかに超えた額を請求される。
分割払いなどをナジフは提案するものの、病院側は断り手術は行われない。
二人は諦めて、家へ帰るしかないのだった。
ボスニア戦争をスリル、ブラックユーモアで寓話化した監督の代表作『ノー・マンズ・ランド』を期待して劇場へ向かうと、落胆するほど本作は非ドラマ的だ。『ノー・マンズ・ランド』は演劇的だと評されるほどセリフの魅力に溢れた映画だったが、『鉄くず拾い』にはほとんどセリフらしきものがない。無声状態が数分続くことが、この映画では数回あり、私の隣の観客はいびきを嗅いて深い眠りについていた。事実「退屈」という感想も、そのとおりである。
だが、本作の手法としてセリフを極端に廃したことは成功だったと私は考える。それは、この話はロマの差別を訴える映画ではないということだ。監督は「彼らが、ロマだということは考えなかった。仮に彼らが金髪で、青い目をしていても、同じ悲劇が起きただろう」と語っている。
この映画の主題は、国家のシステムから排除された人間を描くことなのだ。
手術を受けられないことに関して医師たちは、口を揃えて「私は一雇用者だから、上の判断に従うほかない」、「無理なものは無理」としか説明しない。セリフを極小化させることによって、人間を救うための保険制度が、逆にシステム的に人を排除し、見殺しにする機能として残酷に作動していることを映し出している。
セナダは、最終的に知り合いの保険証を借りて手術を受ける。一般的な観客は、なにかドラマティックな奇跡が起きて、親切な人が現れて手術を受けるのだろうと予想するが、それは完全に裏切られるのだ。自分ではない誰かが、世界をよくしてくれているのだろうなんて甘い考えを持って見る観客に、ダノビッチ監督が「お前らが何もしないから、こうなってんだよ!」と叱咤するようだった。
映画という手法によって身構える観客の思考を、幾重にも裏切り続けることによって、提示する現実へ目を開かせようとしているのだ。ジョン・ケージが「4分33秒」で、音のない楽曲を作り、世界のすべての音を音楽へと開かれるものとした手法を私は重ねてしまう。
「鉄くず拾い」で描かれている現実は言うまでもなく、ボスニアに限ったことではない。日本でも生活保護費問題は昨年大きな話題となった。不安定な社会にも関わらず、セーフティネットが未整備な日本では誰もが主人公ナジフと同じ状況に陥る可能性がある。
このような映画は、生存権や人権などの小難しいテーマへ絡められ、小難しいからという理由で手を伸ばし辛い位置へと置かれがちだ。(実際に映画の広告はその方向で打ち出されている)
そうではなく、もっと単純に、金がないからという理由で人が殺される時代を誰もが考える材料として広く見られるものとしてあってくれればと思う次第だ。
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