『エンダーは禁断の“サード(第三子)”として生まれたために、友達もいない孤独な少年時代を過ごしていた。だが、彼はエンダー(終わらせる者)という名の通り、宇宙戦争を終わらせ地球を滅亡から救う使命を背負っていたのだ。敵は、独自に進化し圧倒的な軍事力を誇る昆虫型生命体フォーミック。その第二次侵攻に備え、世界中から選抜された少年戦士たちと共に防衛軍ベースキャンプのバトルスクールに送られたエンダーは、過酷な訓練によって宇宙で戦うためのあらゆる術を叩き込まれる。
たとえ敵であろうと、多くの生命を奪う戦争は許されるのか?…エンダーは強い疑問を抱き苦悩しながらも、驚くべき速さで戦士として頭角を現し、少年戦士たちの指揮官となる。いつ開戦するかもわからない焦燥感と、絶望的なまでの孤独や重圧と戦うエンダーに、最終戦争の時が迫る。そこには純粋な彼の心を破壊しかねない、衝撃のエンディングが待ち受けていた…。』
オースン・スコット・カードによる同名の名作SF小説の映画化。監督は『ウルヴァリン: X-MEN ZERO 』などのギヴィン・フッドが務めた。
結論からいうと、本作は駄作以外の評価を下し難い。本来小説が持っていた複雑さを、平易にしたことは良しとしても、あまりにも陳腐で、2014年の観客を興奮させるような映画ではない。
VFXの進化は映像化不可能を突破した。あらゆるものを、ビジュアル的に表現できる。度々企画は立ち上がっていたエンダーのゲームが、ようやく公開に至ることができたのはひとえに、VFXの進歩にある。
この映画では、巨大な宇宙艦隊や、バガーと呼ばれる宇宙生物、そしてバトルゲームと呼ばれる無重力空間でのガンアクションなど小説を読んで想像していたビジュアルを映像化させた。
しかし、ただそれだけだ。小説の中の派手なビジュアルを映像にしただけの映画でしかないのだ。
エンダーのゲームはSF小説の名作だ。それだけに、今までの映画たちは小説からインスピレーションを得て画作りをしてきたことだろう。エンダーのゲームが、素直にビジュアルとプロットを映像化するということは、映画としては二番煎じ以外の何物にもならない。
この映画でもっとも良かった無重力空間でのバトルゲームですら、『ゼロ・グラビティ』の公開後に見せられてしまっては数段階評価が下がってしまう。
そもそも、この『エンダーのゲーム』というSFの古典が今も読み継がれている理由を考えた方がいい。それは、SF世界のキャラクターの造形がなによりの魅力だからだ。少年エンダーがジリジリと精神的に追い詰められるが、それでも状況から逃げられないという負の連鎖が多くの読者に支持された。そして、この点だけは似たような設定の映画や小説が現れたとしても永遠に損なわれることのないもっとも重要なエッセンスなのだ。
原作の改悪ということではなく、映画化にあたって抽出するべき部分を完全に見誤っているのだ。たとえれば、デッカードがサイバーパンクな街でただアクションするだけの『ブレードランナー』のような作品なのだ。もっとも面白くなる可能性のある部分を(それだけに、描くことは大変むずかしいが)無為に捨ててしまっている。そして、残った部分で作られ、エンダーのゲームは名作小説から、凡百な映画へ変わってしまったのだ。
本作を見て、小説を未読な人には、是非読んでみてもらいたい。このような映画で、本作のイメージを固めてしまうのはあまりにも勿体無い。
本作を見に行こうか悩んでいる人がいれば、その人は同じ値段で小説を買うことを薦める。数倍も有意義な時間をきっと過ごせるはずだ。
(余談)
原作者オースン・スコット・カードは、モルモン教徒で、同姓愛結婚反対論者としてアメリカでは知られている。そのために、LGBT団体はエンダーのゲームへのボイコットを訴えた。
たしかにオースンの主張はラディカルに保守的であることは否定出来ない。しかし、エンダーのゲームには宗教性も、同姓愛批判のメッセージも存在しない。そして、そもそも小説の最大のメッセージは「対話」なのだ。
少なくとも内容に対して批判されるべき要素は一切ない。
リベラル派であるLGBT団体が、あたかもキリスト教原理主義団体のようにボイコットを訴えかけることに私は落胆を覚える。
レインボーカラーの旗は、性的少数者の集合を意味するものではなく、リベラルさの象徴であってほしい。
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