アドセンス2

2014年2月2日日曜日

【評/感想】『抱きしめたい 真実の物語』脱・純愛とゼロ年代への批評性 映画ファンにこそ薦めたい!



ゼロ年代の純愛映画のフォーマットをそのままに、その上主演が純愛映画の(悪しき)金字塔『1リットルの涙』の主演を務めた錦戸亮。そして、極めつけに監督は『黄泉がえり』の塩田明彦で制作されたのが、『抱きしめたい 真実の物語』だ。

タイトルのセンスの無さも相まって年始から2014年の「この映画はいったい誰が観に行くんだ!?大賞」の筆頭候補だと私は思っていた。
白状すれば、『抱きしめたい 真実の物語』を粗さがししてブログに晒し上げようと思いながら私は映画館に向かった。しかし、私の浅はかな思惑は完全に拒まれた。
少なくともテレビ局が主導する映画の中ではダントツに面白いし、昨年のキネマ旬報大賞の『ペコロスの母に会いに行く』と比較しても遜色のない作品だと胸を張って言おう。

「純愛映画」と言う言葉は、陳腐なストーリーかつ、感動を煽る記号的な演出の応酬が行われる映画のジャンルを遠回しに意味するものとなって久しい。監督は「人の不幸をこれみよがしなお涙頂戴話に仕上げて、観客の皆さんに心地よく涙を流してもらって終わり、みたいな映画にはしない」と宣言し、一見この映画も純愛映画と同じフォーマットに則っていると思われるものの、(実話ではあるが)プロット段階でいわゆる純愛映画から遠のこうという努力がある。
それは北川景子演じるツカサは死につつある存在でも、悲劇のヒロインでも無い点だ。

ツカサは交通事故で左半身が麻痺し、若干の記憶障害はあるものの命の危険からは遠のいている。もっとも彼女は映画の最後に死ぬものの、それは「急性妊娠性脂肪肝」による。これらによって、死に一直線で向かっていくジェットコースター的悲劇から脱却し、障害を乗り越えた先に待つ悲劇としてより重いものの、映画としては中だるみの少ないものになっている。

だからこそ、二人の恋愛はとても凡庸なものだ。ツカサが車いすに乗っている必然性も無いように観客はきっと感じる。しかし、障害に触れないということが逆説的に見えないし、表明しないが深い愛を感じさせるものとなっている。そしてこの姿勢はその他の部分でも一貫して貫かれている。

それを象徴しているのは上地雄輔だ。マサミ(錦戸亮)のタクシー会社の先輩として登場するが、愛を大っぴらに語る彼を映画は明らかに軽い人間として描いている。スピードラーニングを買ってしまったり、「北海道は寒いからハワイでタクシーをやるわ」なんていったり。
馬鹿だけど、いいやつという上地雄輔のキャラクターを更に、ここでは感情をすべて言葉で説明する“ゼロ年代映画の批評的レイヤーが重なっているのだ。

また、この映画は意識的に純愛映画的なウェットさに向かないことを目指している。シリアスなシーンの後に、中和どころではなく深刻さを一切忘れさせてしまうようなエッジィなギャグが挿入されるのだ。中でも元カノにハイネケンの瓶で殴られる錦戸亮は近年稀に見る面白さと衝撃なので、是非このシーンだけでも確認してもらいたい。

それだけではない。この映画はシリアスなシーンすらギャグ化する。障害を持った女と結婚することをマサミの父親、國村隼は快く思わず二人は喧嘩してしまう。しかし、そのシーンがアウトレイジを模倣した形で行われるのだ。一見可笑しさに溢れながら、根幹のメッセージはただのシリアスさだけでは到底たどり着けない形で我々に届く。

もっとも、ギャグ化を可能にしながらドラマとして成立させているのはシリアスさの演出も成功しているからに他ならない。
マサミはツカサの母親・風吹ジュンから、障害を持った子と添い遂げる覚悟があるのかを問われ、ツカサの事故当時の映像を観るように言われた。
カメラは、テレビに映るDVD映像を写すのだがツカサのリハビリの様子は圧巻だ。北川景子は耄碌し、叫びまくり、ヨダレもダラダラ垂らしまくる。手持ちのビデオカメラで撮られたという設定もあり、そんなシーンが2分近くつづく。長回しの効果と、演技の迫真性が相まってこれ以上ない存在感を北川景子演じるツカサは手に入れるのだ。


『抱きしめたい』は丁寧なドラマ作りをし、だが陳腐にならないギリギリなラインでキレキレなギャグを挿入し独自なテイストを醸し出し、かつ全編がゼロ年代への批評として機能している。『アメリカン・ハッスル』や『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』など話題作が目白押しの2月初週に埋もれてしまいそうな一本を是非チェックしてみてほしい。

0 件のコメント:

コメントを投稿