昨年の『風立ちぬ』で宮﨑駿は引退し、早くもスタジオジブリ解散説が噂されている。そ
んな最中、ジブリでいち早く世代交代のバトンを引き受けたのは、『借りぐらしのアリエッティ』の監督を務めた米林宏昌だった。
ジブリの歴史にとって重要な位置づけにならざるを得ない状況で発表された最新作『思い出のマーニー』は残念ながら失敗作だった。それも醜悪で、杜撰で、目も当てられないような。さらに、この作品は「ジブリ」というブランドが持つ独自の映像空間すら破壊している。
ジブリ空間と現実
米林宏昌による『マーニー』はジブリにとっては久々の現代劇で、その辺のよくあるようなマンションに住んでいる中学生の少女・杏奈(高月彩良)が主人公だ。はじめの数シーンは郊外の見慣れた風景が続く。体育着を着てはしゃぎ回る子どもたちや、ロードサイドの「ブックオフ」や「紳士服のコナカ」、そしてウワサ話が大好きな中学の同級生たち。
だが、杏奈は精神的にも肉体的にもそういった我々の日常に溶け込むのが難しい少女だ。まさしく都市が産んだ病の喘息を患い、また血縁者全てを失った過去ゆえに他人とのコミュニケーションをうまく取れない。それを象徴するように、杏奈は建物や木々のスケッチは上手なのだが、人間だけがどうしてもうまく書くことが出来ない。
そして、映画が始まって1分も経たない内に杏奈は「私は自分が大嫌い」と断言する。(ちなみに原作にこんなセリフはない)
ジブリらしからぬヒロインは、心身ともに療養の必要ありと医者に勧められ、釧路の小さな町に住む大岩夫婦のもとに一夏預けられることとなり、物語が始まるのだ。その田舎町は、エコロジスト宮﨑駿が築きあげた、いかにもな「ジブリ空間」が広がっている。美しい木々、心優しい人間たち。誰もが思い浮かべるあの世界だ。
そして、それは予告編で語られるセリフを観客に思い出させる。
「この世には目にみえない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間」という。
きっとこのサンクチュアリで、杏奈は心を癒やし、夏がすぎればまるで違った少女へと成長するのだろうと素朴に思わせる風景があるのだ。
映画の構造的胡散臭さ
これは二重に胡散臭い代物だ。
まず、第一に監督が本作を現実へのメッセージとして作っている点にある。米林宏昌は企画意図でこんなことを語っている「大人の社会のことばかりが取り沙汰される現代で、置き去りにされた少女たちの魂を救える映画を作れるか。」
だが、汚れのない世界はどこを探した所で存在しないのは明らかだ。こんなありもしない美しすぎるジブリ空間を、我々と同じ2014年という世界にあたかも存在するかのように物語のはあまりにも残酷ではないだろうか。
第二に、この米林の世界は原作とは遠くかけ離れたものだということだ。
『思い出のマーニー』の原作がイギリス人のJ.G.ロビンソンによって発表されたのは1964年だ。ビートルズが『ハード・デイズ・ナイト』、『HELP!』を立て続けにリリースし、ローリング・ストーンズがメジャーデビューし、東京オリンピックが開催され、25才だった宮﨑駿は東映アニメーションでメインスタッフとして活躍しそこで出会った女性と結婚した、つまり我々の指すポップカルチャーの起源と同時代の作品と言っていいだろう。
小説『マーニー』の中にもそんな影が垣間見え、コミックブックや、テレビが幾度と無く描写され、特に田舎者らはそういった娯楽に夢中になっている。さらに、それは物語のテーマである「内側」「外側」という問題に肉薄している。つまり、マスメディアが作り出した巨大な「内側」が辺境の地まで覆う中、主人公アンナはそこに入れない社会の「外側」の住人だということをメタファーとして描いていた。
米林宏昌のジブリ空間は、原作の冷ややかな社会への視線を、理想化によって捨て去り、さらにはより残酷な意味合いが付け加わっているのだ。
2014年の田舎町でも、きっとインターネットはあるし、杏奈と同じ年頃の少女はスマホのゲームに課金をしたり、もしかするとLINEで援交の段取りを連絡しているかもしれない。現代を描き、現代の少女に贈るとはそういったリアリティが必要なはずだ。
情緒不安定的主人公の杏奈
杏奈という主人公は、原作の主人公がたまたまアンナだったことから名づけられた少女である。この映画での杏奈の描き方は、あまりにもとらえどころがない。素直なのか、意地悪なのか。人間嫌いなのか、コミュニケーションが苦手なのか。複雑というよりも軸がとてもぶれたキャラクターだ。
とくに顕著なのは、近所の近い年頃の女の子に誘われて七夕祭にいくシーンだ。誘ってくれた少女は、優しげに「どこから来たの」とか、親しくなるための手続き的な質問を幾つか投げかけるも、杏奈は完全に無視。さらに、七夕短冊に書いた杏奈の願いを見られただけで、彼女は誘ってくれた女に対して「放っておいて、フトッチョ豚!」と言い放つ。しかも、その短冊には「普通になれますように」と書いてあるにもかかわらず!
この映画での杏奈は、内向的というよりも情緒不安定のヤバいやつという方が相応しいような姿だ。ちなみに、原作にも「デブッチョ豚」と啖呵を切るシーンがあるが、こちらの場合は杏奈の善意が完全に無視され、さらに相手から意地悪をされた末の一言だ。プッツンとキレてはいるけれど、合理的な理由があるだけに情緒不安定な人間に思われる要素は微塵もない。
杏奈とマーニー
かなりヤバい杏奈は、小さな町の湿地に建つ館、通称「湿地やしき」に魅了され、無言の男、十一(原作・ワンタメニー)のボートに乗ってこの洋館を訪れ、スケッチをするのが日課となった。
デブッチョと言った夜、そのまま祭りを走り逃げると、彼女は入江に行くと見知らぬ美しいボートを発見する。それには、彼女を待っていたかのようにロウソクが一本灯されていた。彼女は、初めてのオールに苦戦しながら洋館に辿り着くと金髪碧眼の少女が待っていた。彼女こそが表題の少女マーニーだ。
ふたりは満月の海の上で少しずつ相手を知りながら段々と距離を縮め、「あなたのことが誰よりも大好き」と俗にいう百合な感じを匂わせるほど愛しあうのだ。その臨界は、マーニーの洋館で開かれたパーティでの夜だ。秘密の友達として誰にも関係を打ち明けられない二人は、誰もいない真っ暗な屋敷の庭で漏れ聞こえるパーティの音楽に合わせて踊りを踊るのだ。
映画的にもクライマックスである、このシーンは原作にはないものの、とても美しいシーンだ。
しかし、甘美な時間は続かなかった。翌日の昼間杏奈が館を訪れると、その館は昨日の綺羅びやかなものとは打って変わって、廃墟としてそびえていた。ガラス窓から中を除くと、壁が崩れ落ち、様々な家具が床に無残に散乱している。
少女二人の同姓愛にも近いような友情に魅了されていると突然に、「あの夜はなんだったのか?」「そもそも、一体マーニーとは何者なのか?」というミステリーに投げ込まれるのがこの作品の魅力だ。
映画のとんでもない結論
その真相は、マーニーは実は杏奈の祖母で、幼いころ両親が死んだ杏奈をマーニーが引取り、寝ている杏奈にマーニーの幼少の思い出を延々と語っていたのだ。そんなマーニーも杏奈が幼い内に亡くなり、唯一の形見として残したのが湿地やしきの写真だった。かつて見た写真の風景が、幼い杏奈の記憶を呼び覚まし、マーニーの幻想を呼び起こしたというわけだ。
デビッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』を思い出させるようなどんでん返しだが、この謎は本来解かれる過程が重要なのであって、この謎が杏奈の物語にとって最重要なものでは断じて無い。
米林宏昌の描く『マーニー』は極端に言えば、彼女は「血」によるアイデンティティを獲得してハッピーというオチになっている。たしかに、この真相に至る過程まで数人の協力があって達成でき、その結果一見すると心を許せる友人が出来たかのように見せかけているが、あくまで見せかけなのだ。
この物語で、杏奈は何一つ成長していない。当初の課題だった、人間とのコミュニケーションの輪の中に自らすすんで入るという明確なシーンが完全に欠けているのだ。原作では、地味ながらも成長の印として、他人に対して心から謝ったり、人のために進んで仕事をしたりというシーンが幾つもあるのだが、米林版には一切ないのだ。
米林宏昌が考える、現代の少女の魂を救済する方法とは、ヌクヌクとした聖域で特に自分で努力もしないけれど、何となく物事が解決してしまうようなことという以外映画を素直に見れば導き出せないはずだ。
2014年に孤児を描くにあたって、3.11で親を亡くした子どもたちを確実に想定の内に入れている。そんな絶望的な人々になにかを与える強度を持っている作品では到底ありえない。
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