アドセンス2

2014年1月22日水曜日

【評/感想】『鉄くず拾いの物語』ドラマの不在が現実へ目を開かせる



「ドキュドラマ」という言葉を耳にしたことがあるだろうか?
「ドキュメンタリー」と「ドラマ」を掛けあわせた造語だ。未知の事実を、ドラマのように見られる形にした映像手法を言う。テレビ番組の「世界まる見え」などで見る再現ドラマに近い形式だ。
ダニス・タノビッチ監督の最新作『鉄くず拾いの物語』は、ボスニアで暮らすロマの家族を襲った悲劇を、彼ら自身に演じさせたドキュドラマだ。

ロマといえば、ヨーロッパに偏在する移動生活者=ノマドを真っ先に想像するだろう。映画で最も有名なロマは、何と言ってもガイ・リッチー監督の『スナッチ』でブラッド・ピットが演じたミッキー・オニールだが。彼らもトレーラーハウスで各地を転々としていた。

だが、実際にすべてのロマが移動生活をしているわけではない。優に300年以上定住して暮らすロマもいる。しかし彼らの内、国籍や医療保険の恩恵を受けているものは少ない。
『鉄くず拾いの物語』の主人公ナジフの家庭も、そのような定住者の一つだ。

ナジフは山に不法投棄された鉄くずを拾い、妻と二人の娘を養っている。だが、その生活は貧しく電気を止められてしまうような家計状況だ。そんなある日、彼の妻セナダは腹痛を訴える。ナジフは彼女を病院に連れて行くと、彼女の胎内の子が流産していることが判明した。このまま放置すれば、じきに敗血症に至り、最悪の場合は死ぬ可能性があることを告げられる。しかし、保険証を持たない場合の手術費は恐ろしく高く。彼らの生活レベルをはるかに超えた額を請求される。
分割払いなどをナジフは提案するものの、病院側は断り手術は行われない。
二人は諦めて、家へ帰るしかないのだった。

ボスニア戦争をスリル、ブラックユーモアで寓話化した監督の代表作『ノー・マンズ・ランド』を期待して劇場へ向かうと、落胆するほど本作は非ドラマ的だ。『ノー・マンズ・ランド』は演劇的だと評されるほどセリフの魅力に溢れた映画だったが、『鉄くず拾い』にはほとんどセリフらしきものがない。無声状態が数分続くことが、この映画では数回あり、私の隣の観客はいびきを嗅いて深い眠りについていた。事実「退屈」という感想も、そのとおりである。

だが、本作の手法としてセリフを極端に廃したことは成功だったと私は考える。それは、この話はロマの差別を訴える映画ではないということだ。監督は「彼らが、ロマだということは考えなかった。仮に彼らが金髪で、青い目をしていても、同じ悲劇が起きただろう」と語っている。
この映画の主題は、国家のシステムから排除された人間を描くことなのだ。

手術を受けられないことに関して医師たちは、口を揃えて「私は一雇用者だから、上の判断に従うほかない」、「無理なものは無理」としか説明しない。セリフを極小化させることによって、人間を救うための保険制度が、逆にシステム的に人を排除し、見殺しにする機能として残酷に作動していることを映し出している。

セナダは、最終的に知り合いの保険証を借りて手術を受ける。一般的な観客は、なにかドラマティックな奇跡が起きて、親切な人が現れて手術を受けるのだろうと予想するが、それは完全に裏切られるのだ。自分ではない誰かが、世界をよくしてくれているのだろうなんて甘い考えを持って見る観客に、ダノビッチ監督が「お前らが何もしないから、こうなってんだよ!」と叱咤するようだった。

映画という手法によって身構える観客の思考を、幾重にも裏切り続けることによって、提示する現実へ目を開かせようとしているのだ。ジョン・ケージが「4分33秒」で、音のない楽曲を作り、世界のすべての音を音楽へと開かれるものとした手法を私は重ねてしまう。

「鉄くず拾い」で描かれている現実は言うまでもなく、ボスニアに限ったことではない。日本でも生活保護費問題は昨年大きな話題となった。不安定な社会にも関わらず、セーフティネットが未整備な日本では誰もが主人公ナジフと同じ状況に陥る可能性がある。
このような映画は、生存権や人権などの小難しいテーマへ絡められ、小難しいからという理由で手を伸ばし辛い位置へと置かれがちだ。(実際に映画の広告はその方向で打ち出されている)

そうではなく、もっと単純に、金がないからという理由で人が殺される時代を誰もが考える材料として広く見られるものとしてあってくれればと思う次第だ。

2014年1月20日月曜日

【評/感想】『エンダーのゲーム』原作を理解できない製作陣が作った、一点の曇もない駄作



『エンダーは禁断の“サード(第三子)”として生まれたために、友達もいない孤独な少年時代を過ごしていた。だが、彼はエンダー(終わらせる者)という名の通り、宇宙戦争を終わらせ地球を滅亡から救う使命を背負っていたのだ。敵は、独自に進化し圧倒的な軍事力を誇る昆虫型生命体フォーミック。その第二次侵攻に備え、世界中から選抜された少年戦士たちと共に防衛軍ベースキャンプのバトルスクールに送られたエンダーは、過酷な訓練によって宇宙で戦うためのあらゆる術を叩き込まれる。
たとえ敵であろうと、多くの生命を奪う戦争は許されるのか?…エンダーは強い疑問を抱き苦悩しながらも、驚くべき速さで戦士として頭角を現し、少年戦士たちの指揮官となる。いつ開戦するかもわからない焦燥感と、絶望的なまでの孤独や重圧と戦うエンダーに、最終戦争の時が迫る。そこには純粋な彼の心を破壊しかねない、衝撃のエンディングが待ち受けていた…。』

オースン・スコット・カードによる同名の名作SF小説の映画化。監督は『ウルヴァリン: X-MEN ZERO 』などのギヴィン・フッドが務めた。
結論からいうと、本作は駄作以外の評価を下し難い。本来小説が持っていた複雑さを、平易にしたことは良しとしても、あまりにも陳腐で、2014年の観客を興奮させるような映画ではない。

VFXの進化は映像化不可能を突破した。あらゆるものを、ビジュアル的に表現できる。度々企画は立ち上がっていたエンダーのゲームが、ようやく公開に至ることができたのはひとえに、VFXの進歩にある。
この映画では、巨大な宇宙艦隊や、バガーと呼ばれる宇宙生物、そしてバトルゲームと呼ばれる無重力空間でのガンアクションなど小説を読んで想像していたビジュアルを映像化させた。

しかし、ただそれだけだ。小説の中の派手なビジュアルを映像にしただけの映画でしかないのだ。

エンダーのゲームはSF小説の名作だ。それだけに、今までの映画たちは小説からインスピレーションを得て画作りをしてきたことだろう。エンダーのゲームが、素直にビジュアルとプロットを映像化するということは、映画としては二番煎じ以外の何物にもならない。
この映画でもっとも良かった無重力空間でのバトルゲームですら、『ゼロ・グラビティ』の公開後に見せられてしまっては数段階評価が下がってしまう。

そもそも、この『エンダーのゲーム』というSFの古典が今も読み継がれている理由を考えた方がいい。それは、SF世界のキャラクターの造形がなによりの魅力だからだ。少年エンダーがジリジリと精神的に追い詰められるが、それでも状況から逃げられないという負の連鎖が多くの読者に支持された。そして、この点だけは似たような設定の映画や小説が現れたとしても永遠に損なわれることのないもっとも重要なエッセンスなのだ。

原作の改悪ということではなく、映画化にあたって抽出するべき部分を完全に見誤っているのだ。たとえれば、デッカードがサイバーパンクな街でただアクションするだけの『ブレードランナー』のような作品なのだ。もっとも面白くなる可能性のある部分を(それだけに、描くことは大変むずかしいが)無為に捨ててしまっている。そして、残った部分で作られ、エンダーのゲームは名作小説から、凡百な映画へ変わってしまったのだ。

本作を見て、小説を未読な人には、是非読んでみてもらいたい。このような映画で、本作のイメージを固めてしまうのはあまりにも勿体無い。
本作を見に行こうか悩んでいる人がいれば、その人は同じ値段で小説を買うことを薦める。数倍も有意義な時間をきっと過ごせるはずだ。

(余談)
原作者オースン・スコット・カードは、モルモン教徒で、同姓愛結婚反対論者としてアメリカでは知られている。そのために、LGBT団体はエンダーのゲームへのボイコットを訴えた。
たしかにオースンの主張はラディカルに保守的であることは否定出来ない。しかし、エンダーのゲームには宗教性も、同姓愛批判のメッセージも存在しない。そして、そもそも小説の最大のメッセージは「対話」なのだ。
少なくとも内容に対して批判されるべき要素は一切ない。

リベラル派であるLGBT団体が、あたかもキリスト教原理主義団体のようにボイコットを訴えかけることに私は落胆を覚える。
レインボーカラーの旗は、性的少数者の集合を意味するものではなく、リベラルさの象徴であってほしい。


2014年1月19日日曜日

【評/感想】『大脱出』逆説的な脱獄不可能性の証明 



大脱出というタイトルに間違いはない。
しょっぱなからスタローンは、むきむきの筋肉を駆使して脱獄をする。その様子には、一切の戸惑いも、緊張も無い。まさに朝飯前というように、軽々とスマートに脱獄してしまう。それも魔法のようにだ。
そして、脱獄が終わった彼は自ら警察に捕まる。実はスタローンは、刑務所に収監され、設備の脱獄可能性を指摘するのを生業にする、民間警備会社から派遣された脱獄のプロだったのだ。
ここまでの、冒頭約20分の脱獄は掛け値無しにクールだ。

スタローンはCIAのエージェントから新たな依頼が舞い込む。その舞台は、非政府組織が運営する民間の監獄だ。非合法に重要人を捉え、非合法に収監される秘密の監獄のセキュリティの強固さを出資者に示す為に、スタローンは収監される。
彼が送られた監獄は、コンピュータ制御による監視、ガラス製のパノプティコン、監守は皆面を被る、異様で最新鋭の施設だった。スタローンは、そこでシュワルツェネッガーと出会い脱獄を進める...

脱獄というテーマは普遍的に受けるものの一つだ。青森学の『大脱出』評はこの点を上手くまとめている。

『監獄ものが何故受けるのかというと、それは監獄が抑圧された社会を象徴するからだ。監獄というのは人種・思想で差別されることなく犯罪者であれば平等に抑圧されるので、偏見を超えた紐帯が生まれやすい側面も有ると思う。その状況下で生まれる友情や自由を獲得するための戦い、連帯感が現実と違って自然に描ける点にある。監獄ものではベースとなるストーリーが社会の改変・糾弾なのでどうしてもリベラルテイストなストーリーになるのである。刑務所は一般社会をミニチュア化したもの、縮図と云える。』

以上の様に、脱獄映画は一種の普遍性を持つが故に、これまで様々な名作を生み出し、同時に駄作も量産された。そして、似たような監獄で、似たようなトリックで脱獄するという定式化を超えることが出来ず、現在ジャンルは死に体となっている。

その点、大脱出はテクノロジーとコンピュータに制御された監獄を設定し、ジャンルのカンフル剤になりえるかと思えた。また、ハイテク監獄とは現代社会を反映する批評性を持ち得る可能性を持っていた。だが、その試みは明らかに失敗している。

最初こそガラス製のパノプティコンに閉じ込められた物のシーンの多くはその房の外の、食堂であったり、懲罰房で行われる。そこは、申し訳程度に監視カメラがあるもの先の場所よりも明らかにテクノロジー化されていない。脱出も、こういったテクノロジーの行き届いていない場から行われるのだ。これらは結果的に、ハイテク化した現実の社会構造からの脱獄の不可能性を逆説的に強調する。最強の監獄の、最強さにこの映画は勝ってはいないのだ。

テーマを描けなかったという点で、大脱出は失敗作だと私は思うが、このような午後のロードショー的な映画を劇場で見れる機会は最近は中々無い。シュワルツェネッガーが巨大な機関銃を手に取り、スローで見栄を切るようなシーンは、どんなアクション映画とも異なる興奮を観客に与えるだろう。また俳優らの年齢を考えると、こんなベタなものをスクリーンで観られるのは本作が最後かもしれない。

(余談)
この映画の宣伝は酷すぎる。
場所の分からない監獄の正体を知る為に、一度外に出てみると、実は船の上だった。という映画きっての名場面があるのだが、広告ポスター、予告編ではっきりとネタバレしてしまっているのだ。
全編を通してベタな映画な中で唯一意外性を与えるシーンを言ってしまっては、観客は緊張感を持つことが出来ない。
スタローンが「ここはどこだ」と奔走するが、私はずっと「海の上だよ!」と心の中で叫び続けていた。

GAGAは、こんな最悪な広告を作ったことに猛省するべきだ。